太田述正コラム#5322(2012.2.25)
<大英帝国再論(その11)>(2012.6.11公開)
・スーダンにいる南スーダン人
「・・・両国は国籍に関することについても決着をつけなければならない。
最初の移行期間が終わる4月には、スーダンに住む南スーダン人は外国人扱いとなり、逆に南スーダンに住むスーダン人もそうなる。
河畔の都市であるコスティ(Kosti)で何万人もの、南<(南スーダン)>に行こうとしている南スーダン人が止められている。
そして、南スーダンの役人達は、スーダンが彼らの帰国の邪魔をしていると非難している。
<スーダン政府の交渉団長>は、この嫌疑を否定している。・・・」(E)
「・・・スーダンと南スーダンの間の敵意ゆえに・・両者は、この地域全体にかけてもう一度大きな紛争が起きることに備えて大規模な部隊を国境線沿いに配備している・・、南部人で北部に住んでいる者に二重国籍が認められることはないし、北部人で南部に住んでいる者の地位がどうなるかははっきりしていない。・・・
・・・<南スーダン人の両親の間で子供の>誰かが北部で生まれたとしても、諸制約を受けるのは同じだ。
・・・仮に当人が南部からの民族集団に属しておれば、その人は南部人とみなされるからだ。
これら全て<の問題>に直面し、350,000人を超える南部人が、最近、バスやバルジ船で北部から南部へ移動した。
これは、国連と南スーダン政府によって促進されたところの巨大な移民の一部だ。
他にも多数の人々が<南に向けて>出発しようとしている。・・・」(F)
・国境線
「・・・ジュバ(Juba<=南スーダン(の首都)>)は、アブイェイ(Abyei)の土地を分割したところの、2009年の仲裁決定を無視して、ハルツームが同地を占拠するのを指をくわえて見ている状況だ。・・・」(A)
「・・・それでも、国境線をめぐる交渉は若干の前進を見たようだ。
<スーダン政府の交渉団長は、>ただちに国境線に目印をつける作業に取り掛かることに両者が合意したと述べた。
この過程は3か月かかるはずだ。・・・」(E)
・スーダン内の南スーダン系叛乱部隊
「・・・交渉者達は、早晩、スーダンの州である青ナイル(Blue Nile)<(注45)><州>と南コルドファン(Kordofan)<州>における諸紛争について決着をつける必要がある。
(注45)「エチオピアのタナ<(Tana)>湖に源に発する川で、白ナイル川とともにナイル川の支川を形成している。・・・スーダンの首都ハルツームで白ナイル川と合流し、その後はナイル川としてエジプトを流れアレキサンドリアで地中海に注ぐ。名称は一年の大半において、水が白ナイル川の(灰色に濁った)水よりも透明に見えることに由来している。・・・スーダンにおいても青ナイル川は重要な資源であり、スーダン国内の電力の80%<を2つのダムで賄っている。>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E3%83%8A%E3%82%A4%E3%83%AB%E5%B7%9D
この2州は南スーダンに接しており、南スーダンの指導者達は、歴史的にこれらの地域と絆がある。・・・
昨年、この2つの州において、以前南部と一緒になって戦っていた叛乱者達が、ハルツームのスーダン政府に対して武器を取って立ち上がった。
スーダンは南スーダンが彼らを支援していると非難している。・・・」(E)
ウ ダルフール
・背景
「・・・<スーダン西部の>ダルフール(Darfur)における9年間にわたる紛争の後、200万人の人々が難民収容所にいる。
叛乱者達が2003年に武器を取って以来、ダルフールで、大部分が疾病により、300,000人を超える人々が死んだ、と国連は推定している。・・・
スーダンのオマール・アル=バシール(Omar al-Bashir)<(注46)>大統領には、ダルフールにおけるジェノサイド、人道に対する罪、及び戦争犯罪の咎でハーグの国際刑事裁判所から逮捕状が出ている。
(注46)1944年~。「<彼の>母語はアラビア語であり、いわゆるアラブ系スーダン人である。・・・エジプト陸軍士官学校[及びスーダン陸軍士官学校]卒。・・・1973年にはエジプト軍と第四次中東戦争に従軍した。・・・准将<の時の>・・・1989年に[無血クーデターで]軍事政権を成立させ、政権を掌握。同国首相などを歴任。国民会議([National Congress Party])議長。・・・
アラブ系の部族に黒人系を襲わせた他、黒人系の民族間でも対立を煽り、人種差別を徹底させ、1991年の新刑法及び治安警察の導入、ムスリムの判事の採用などでキリスト教や伝統宗教が普及している南部にシャリーアを強要し、南部の村を空爆し女性や子供を奴隷化するなどして、北部対南部の内戦を拡大させた。
欧米のキリスト教系の「援助団体」により「イスラム教徒対キリスト教徒」の構図で語られることが多いが、圧迫の対象は異教徒だけではなく、ダルフールや東部戦線、ヌバ山地など、自身の属するアラブ系スーダン人ではない、低開発地のムスリムを含む勢力も弾圧の対象であり、彼らはこれに対して抵抗している。・・・
アラブ連盟とアフリカ連合は常任理事国の中国とロシアの後押しを受けて、米英仏などに国際刑事裁判所によるバシール大統領の・・・2009年<の>・・・逮捕決定を保留する権利を行使するよう訴えた。・・・バシールを逮捕できる可能性は低い。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%AB%EF%BC%9D%E3%83%90%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%AB
http://en.wikipedia.org/wiki/Omar_al-Bashir (ただし[]内)
彼は、これらの容疑を否定している。」(B)
・叛乱部隊
「・・・スーダンのダルフールの叛乱者達は、許可なく彼らの領域に侵入してきたと非難していた49人のアフリカ平和維持部隊員を解放した、と述べた。
しかし、・・・叛乱者達は、スーダンの治安部隊の手先である嫌疑がある3人は解放していないとも述べた。・・・
この事件は、ダルフールが<今なお>安定性を欠いていることをはっきり示すものだ。
2006年以来、戦闘は収まりつつあるが、3つの叛乱集団が今なお戦っている。・・・
<また、>そのうちの<2つ>・・・の間の関係が最近悪化している。・・・」(B)
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<脚注1:第二次スーダン内戦>
南スーダンの面積は619,745km2で人口は約826万人で、公用語は英語。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E3%82%B9%E3%83%BC%E3%83%80%E3%83%B3
ちなみに、スーダンの面積は1.886,068km2で人口は約3090万人で、公用語はアラビア語と英語。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%BC%E3%83%80%E3%83%B3
(首都ハルツームのナイル川対岸に位置するオムドゥルマン(Omdurman)がスーダンで最大の都市で商業の中心地。マーディーの廟があるこのオムドゥルマンの戦いでキッチナーはマーディー軍を破り、イギリスのスーダン支配を確実にした。)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%A0%E3%83%89%E3%82%A5%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%83%B3
「1983年、・・・<スーダン>軍の大佐だったジョン・ガランは地方分権と民主主義の実現を求め、南北の地域格差是正など「新スーダン」の建設を掲げ、SPLAを立ち上げ、2005年7月・・・に死ぬまで議長と最高司令官を兼ねた。正式名称は組織の政治部門と軍事部門の名をあわせたスーダン人民解放軍・スーダン人民解放運動 (SPLA/SPLM<=Sudan People’s Liberation Army/Sudan People’s Liberation Movement>) だが軍事部門が突出していたためSPLAが通称となっていた。第二次内戦は宗教と民族の概念で語られることが多かったが、南部に多い原油資源の分配を巡る争いでもあった。・・・ SPLAはソ連、エチオピアなどの支援<を得て戦った。>・・・2005年にSPLA/Mとスーダンの政府の間の和平協定で南スーダンの自治の正式な合意に至った。・・・2011年の南スーダン独立後はSPLMは政権与党となり、SPLAは正規軍(南スーダン軍)に再編成されたが、北スーダンでは依然として武装組織として活動しており、南コルドファン州やヌバ山地を拠点に度々スーダン軍と衝突している。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%BC%E3%83%80%E3%83%B3%E4%BA%BA%E6%B0%91%E8%A7%A3%E6%94%BE%E8%BB%8D
なお、ジョン・ガラン(John Garang de Mabior。1945~2005年)は、第一次スーダン内戦(1955~72年。500,000人が死亡)に参加したり、スーダン軍で軍歴を重ねたりしながら、タンザニアと米国(2回)に留学し、米アイオワ州立大学で農業経済学の修士号と博士号を取得し、1983年に第二次スーダン内戦を始める。2005年にスーダン政府との間で和平協定が成立し、スーダンの副大統領に就任するも、ヘリコプター事故で死亡した。
http://en.wikipedia.org/wiki/John_Garang
http://en.wikipedia.org/wiki/First_Sudanese_Civil_War
<脚注2:ダルフール紛争>
「ダルフールは総面積493,180 km2で人口は約600万人である。・・・主な民族は地名の由来であるナイル・サハラ語族のフール人とアラブ系のバッガーラであ<る。>・・・バッガーラはさらにいくつかの支族に分かれ、・・・アラビア語以外を話す者もいる。・・・バッガーラは相当数の人口で隣のチャドにも存在する。・・・フール王国は奴隷貿易の中心地の1つであり、他のスーダンからアラブ世界へアフリカ系民族が引渡された。・・・非アラブ系の民族は主として定住農家で、アラブ系は遊牧民的な牧者である。このことは両者が伝統的に水と土地の利用に関する争いを継続してきた要因となった。伝統的な紛争は首長間の交渉で解決されてきた。それが・・・原油と鉄とウランなどの鉱物・・・資源の開発と利権により、民族紛争が分配の不平等を覆い隠すために利用されるようになった。・・・
2003年の初頭ダルフールの2つの反政府組織・・・がスーダン政権のアラブ系による非アラブ系への抑圧と資源分配や行政上のダルフールの無視を非難して反乱を起こした。それに対しスーダン政府は空爆などでアラブ系民兵ジャンジャウィードの非アラブ系への襲撃を支援した。ジャンジャウィードは非アラブ系への大量虐殺、略奪、組織的強姦などの重大な人権侵害で訴えられている。彼らは多くの村を丸ごと焼払い、チャドや国内の難民キャンプへ逃れる住民を追立てて襲うなどしている。国内難民キャンプの多くはジャンジャウィードに取囲まれている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%AB%E3%83%95%E3%83%BC%E3%83%AB
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ナイジェリアと旧スーダンの、紛争の絶えない現状は、実によく似ています。
その背景にあるのが、全般的貧困、部族間の対立とオーバーラップした形で(北部の)イスラム勢力と(南部の)キリスト教勢力の対立、そして豊富な資源をめぐる争い(鉱物資源の呪い)、である点もそっくりです。
イスラム勢力が原理主義化していて、上記対立が先鋭化している点も生き写しです。
黒人・・(新)スーダンはアラブ化した黒人や黒人との混血を含む「アラブ系」が総人口の約39%です
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%BC%E3%83%80%E3%83%B3 前掲
が・・のIQが低い(コラム#省略)といういかんともしがたい問題はさておき、旧宗主国たる英国が、植民地時代に、一、インフラ投資を怠った・・例えば、南スーダンは、「<スーダンからの独立時点で>舗装道路は国内で約60km、ナイル川にかかる橋は1本しかな<かったし、>・・・<鉄道は狭軌で248kmしかなかった。>
http://ja.wikipedia.org/wiki/南スーダン
二、原住民のための経済・文化振興政策をやらなかった、三、(ナイジェリアのところでも触れたが)原住民の初等中等教育に力を入れなかった、四、部族間対立や宗教間対立を分割統治の観点から放置したどころか、往々にして助長した、といったことが推察されます。
(続く)
大英帝国再論(その11)
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