太田述正コラム#5328(2012.2.28)
<大英帝国再論(その13)>(2012.6.14公開)
結局、イラクは、ガートルート・ベル(とウィンストン・チャーチル)の気まぐれによるところの、クルド地区を分離せず、しかも少数派のスンニ派に多数派のシーア派を統治させる、という形の出発が祟り、(米国のイラク占領統治の不手際もあって、)クルド地区の分離だけでなく、インド亜大陸でのインドとパキスタンへの暴力的分割という悲劇の二番煎じのような、シーア派の国とスンニ派の国への暴力的分割へのプロセスを辿っている、ということです。
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<ナイジェリアの追記>
 ナイジェリアに生まれ、ロンドンで窃盗罪で二度有罪となり、その経歴を偽ってナイジェリアの石油産出州の知事に当選し、公金横領を重ね、そのマネーロンドリング容疑で再びロンドンで逮捕され裁判中のトンデモ男・・つい最近までナイジェリアの副大統領職が約束されており、副大統領になっておれば、大統領になった可能性も高い・・・の話が載っている。↓
http://www.bbc.co.uk/news/world-africa-17184075
http://www.bbc.co.uk/news/world-africa-17181056
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 (5)カシミール
 「・・・『世界の自由度2006(The Freedom in the World)』報告書は、インド管理下のカシミールを「部分的に自由」とし、パキスタン管理下のカシミールを、パキスタンそれ自体同様、「非自由」に分類している。・・・
 <ある世論調査によれば、インド管理下の(?)>カシミールの回答者の61%はインド市民であるほうが良いと思うと述べ、33%は分からないと述べ、残りの6%はパキスタン市民になりたいと述べた。
 2007年に行われた・・・世論調査では、カシミール渓谷の回答者達の87%はインドまたはパキスタンの下にとどまるよりも独立したいとの意向を示した。・・・
 <2010年には、>インド部隊によって人権蹂躙が行われたとして・・・抗議者達が独立志向のスローガンを叫び、戒厳令をものともせず、治安部隊を石で攻撃し、警察車両や政府の建物に放火した。
 ジャム&カシミール(Jammu and Kashmir<=インド管理下のカシミール>)警察とインドの準軍事部隊は抗議者達に実弾を発射し、10代の若者達を含む112名の死者を出した。
 <その年の>9月に、緊張を緩和するねらいの一連の諸措置をとることをインド政府が声明した後、<ようやく>抗議活動は収ま<り、現在に至っている>。・・・」
http://en.wikipedia.org/wiki/Kashmir_conflict
 現在のカシミールは、英国による悪しきインド亜大陸統治のツケが最も極端な形であらわれている、と受け止めればよいでしょう。
 (6)ビルマ
 「・・・<ビルマでは、>1月13日に、651人の・・・政治的囚人達・・・が解放された・・・<が、>これはEUと米国によって課された経済制裁解除を促す狙いの下にはじめられた一連の改革<の一環だ。>・・・
→こういう時に日本を(あえて?)書き忘れるのは困ったものです。(太田)
 議会補欠選挙が4月に行われる予定であり、野党の指導者のアウン・サン・スーチー(Aung San Suu Kyi)が議会での一議席のために立候補する。
 EUの開発担当相(Development Commissioner)・・・は・・・ビルマに対する経済制裁は、この選挙が自由かつ公正に行われたならば緩和されるかもしれない、と述べた。・・・」
http://www.bbc.co.uk/news/world-asia-17088695
 「・・・<テイン・セイン(注48)大統領による>この恩赦には、元首相で軍事諜報機関の長であったキン・ニュン(Khin Nyunt)<(注49)>中将が腐敗の咎で有罪となった時に投獄されたところの、60人前後の元軍人達も含まれている。
 (注48)Thein Sein。1945年~。「現在、同国大統領(軍事政権後初代・国家元首通算第10代)、「連邦団結発展党」党首。軍事政権内での序列は4位。同国首相などを歴任。就任時の階級は中将、民族的には華人であり、後に政党結党前に軍籍を離れる。中国語名は登盛。・・・他の軍高官とは違い、利権や汚職などのスキャンダルに見舞われず、国民にはクリーンなイメージを持たれているとされる」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%BB%E3%82%A4%E3%83%B3
 (注49)1939年~。ヤンゴン大学卒。「シャン州において長らく対立関係にあったビルマ共産党が内部クーデターで崩壊後、ワ州連合軍など分裂した後身の私兵組織と次々に休戦協定を結んだ。2002年9月、大将に昇格。2003年8月から首相を務め、穏健派・国際協調派で柔軟派かつ軍政きっての切れ者として知られた<が、>・・・2004年10月、首相を解任された。・・・解任後はヤンゴンの自宅にて軍の軟禁下にあったが、<今回の>恩赦<により>、キン・ニュンも軟禁を解かれた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%B3
 <こちらの>集団は、欧米の人権諸機関によって政治的囚人達と必ずしも見なされていなかったが、彼らもまた、政治的咎で投獄されたことには違いはない。・・・
 恩赦はその前にも何回かあり、一番最近のものは1月4日に38,964人の囚人達が刑期が短縮されたり解放(6,656人)されたりした。
 ところが、今回の恩赦においては、ビルマ政府は民主主義のための国民連合(National League for Democracy’s=NLD)の囚人リスト604人中、その半分以上を解放したのだ。
 これにひけをとらない歴史的瞬間が、ビルマ政府・・・とカレン民族同盟(Karen National Union=KNU)<(注50)>による・・・1月12日の休戦協定への調印の時にやってきた。・・・
 (注50)「ミャンマーとタイ国境地域に解放区・・・を持つ。・・・ミャンマー(ビルマ)連邦政府との武装闘争は1948年までさかのぼることが出来る。・・・現在、タイ国内の難民キャンプには内戦を逃れた約12万人のカレン民族が生活している。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%AC%E3%83%B3%E6%B0%91%E6%97%8F%E5%90%8C%E7%9B%9F
 これは、アジアにおける最も長い紛争の一つであったところの、60年間の武装抵抗を終わらせる、と期待されている。
 この協定は、シャン州軍、すなわち、シャン州のワ(Wa)とモングラ(Mongla)及びチン(Chin)州のチン民族戦線(Chin National Front )という、他の民族集団群との休戦に引き続いてのものだ。・・・ 
 12月29日に、選挙管理委員会は、閣僚達の任命によって空席となった議席を埋めるために、補欠選挙を4月1日に実施する旨発表した。
 <1月15日から始まる>週に、アウンサン・スーチーは、ラングーンの・・・選挙区から立候補する旨発表した。・・・
 このところの<かかる>進展は、報道の自由の拡大、組合を認める新たな労働諸法、NLDと政府との国家的和解のプロセス、そしてビルマの2014年におけるASEAN議長国への選出、の最後に起こったものだ。
 欧米やビルマ国境に位置する活動家達の圧力集団群は、次第に強く、自分達によるビルマ孤立化諸政策と諸経済制裁体制がこれらの変化をもたらした、と主張している。
 しかし、実際には、ビルマ内の市民社会における少数民族とバマール(Bamar=ビルマ民族)双方の諸団体がたゆまなく過去5年にわたって汗をかいたことが、これらの変化をもたらしたのだ。・・・
 いくつかの市民社会集団の最大の成功は、新しい大統領と彼の部下達に、自分達による直接統治を無期限に続けることはできないとの軍部の認識に付け入ることによって、この改革プロセスが本当に彼らの利益になる、ということを確信させたことだ。・・・」
http://www.bbc.co.uk/news/world-asia-16695353
 「・・・ミャンマーでは、20年を超える期間、軍事体制下で禁止されていたところの、仏教のお祭りのために、ダイヤモンドをちりばめた聖なるお宮に<、先週、>何千もの人々が群れ集った。
 これは、この東南アジアの国における最も最近における変化の徴表だ。・・・
 過去においては、5人を超える人々の集まりは禁止され得た・・・。
 小さいパゴダにおいて諸儀式を行うことは許されていたが、大きなお祭りは問題ありと見られていたのだ。・・・」
http://latimesblogs.latimes.com/world_now/2012/02/thousands-thronged-to-a-sacred-shrine-studded-with-diamonds-in-myanmar-for-a-buddhist-festival-that-was-banned-for-more-tha.html
(2月23日アクセス)
 「・・・6ヵ月前に、ミャンマーのテイン・セイン大統領が北京を訪問したところ、胡錦濤<国家主席>は、「ミャンマーの利益を守る」と約束し、友好条約に調印した。
 しかし、爾来、ミャンマーは非常に非支那的な諸方向に動いた。
 政治的囚人達を解放することを選んで暗闇の中から立ち現れたミャンマーは、北方のパトロン達に固執するより欧米に向かって行く決意であるように見える。・・・
 昨年末、ミャンマー政府は、中共が資金を提供したところの、地域住民達と環境保全主義者達が警告を発していた・・・ダム建設プロジェクトを中止するということも行った。
 これは、平均的な人が考えることに最終的には配意する、という徴表だ。・・・
 ・・・以上<の動き>は、1977年に<エジプト大統領の>サダトが<同国から>ソ連の顧問達をたたき出したことにちょっと似通っている。・・・
 もう一つの希望の持てる徴候もあらわれた。
 ノーベル平和賞受賞者のアウンサン・スーチーが1993年に逮捕された時に停止された日本の援助について、日本が再開することを誓約したのだ。・・・」
http://www.slate.com/blogs/the_reckoning/2012/02/27/hu_lost_burma.html
(2月28日アクセス)
→やっと日本への言及があったことはよしとして、EUや米国とは区別して日本だけを取り出して言及しているところは、依然、違和感があります。(太田)
 ミャンマー政府の、このような、にわかな自由民主主義化の動きの原因について、米英のメディアは苦し紛れにいくつかの憶測を並べ立ててきていますが、前にも述べたように、私は、先の大戦中の日本によるビルマ独立運動への梃入れとビルマ統治がビルマの人々に及ぼした影響を過小評価してはならないと思っています。
 宗主国の英国によって王室以下の統治機構を粉砕され、例によってインフラ整備や初等中等教育等を怠るという英植民地当局の放任的統治によって萎えていたビルマの人々の精神を、(本来もっときちんと論じるべきですが、)日本が作興したことによって、ビルマにおいて、近代化/自由民主主義化につながる種が蒔かれた、というのが私の見立てです。
 昨年まで国家元首兼国軍最高司令官であったタン・シュエ(Than Shwe。1933年~。高卒で郵便局員を経て国軍に入る)は、日本占領時代には既に物心がついていた年齢でしたが、彼が、自分の元首時代(1992~2011年)に、「政治的な腐敗に対して大規模な粛正を行なった<ことで>国民の支持率は決して低くは無」かったとも言われていますし、「ミャンマーの東南アジア諸国連合(ASEAN)への加盟(1997年)」を実現していますし、「国際赤十字委員会およびアムネスティ・インターナショナルを初めてミャンマーに入国させて」もいます。
 占星術にこったとか、家族に贅沢をさせたといった点はともかく、「元首退任後、政治にはほぼ口出ししていないとも言われ」ていることからも、そして何よりも、テイン・セインを大統領に据えたことからも、彼を単なる独裁者と切り捨てるべきではない、と思います。
 (「」内等、タン・シュエについては、下掲に拠った。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%A8 )
(続く)