太田述正コラム#5336(2012.3.3)
<文化について考える(その1)>(2012.6.18公開)
1 始めに
このところ、松尾匡を何度も引っ張り出して恐縮ですが、彼の、(欧米の「開放個人主義原理」に対置される)日本の「身内集団原理」なる考え方(コラム#5332)の胡散臭さ・・それは、ルース・ベネディクトの(欧米の「罪の文化」に対置される)日本の「恥の文化」なる考え方(コラム#1046、1054、3491、3882、4433、4765、4783、4861、5023)や、丸山真男の(欧米の「する社会」に対置される)日本の「である社会」なる考え方
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%80%8C%E3%81%A7%E3%81%82%E3%82%8B%E3%80%8D%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%A8%E3%80%8C%E3%81%99%E3%82%8B%E3%80%8D%E3%81%93%E3%81%A8
の胡散臭さに通じる・・について、どう説明したら太田コラムの読者に理解してもらえるか、散々考えた挙句、社会は、一定の原理を持っており、それが文化である、ということに思いを致せば、この3人の文化観がそもそも誤っている、ということを論証するのがよいのではないか、と思い至りました。
ところで、この、少なくとも文化を重視しているらしき3人よりも、ある意味でもっと出来が悪いのが、ジェームス・ロビンソン(James A Robinson)とダロン・アゼモルー(Daron Acemoglu)が、共著 ‘Why Nations Fail: The Origins of Power, Prosperity and Poverty’ で展開した、文化無視論とでも言うべき主張です。
ちなみにロビンソンは、米国人と思しきハーバード大学行政学教授
http://scholar.harvard.edu/jrobinson
ですし、アゼモルーはトルコ生まれの米国帰化人たるMITの経済学教授
http://en.wikipedia.org/wiki/Daron_Acemo%C4%9Flu
です。
この本の書評をご覧ください。
「どうして若干の社会は民主主義的で繁栄していて安定しているのに、その他の社会は専制的で貧しくて不安定なのだろうか。
これは、社会科学において最も重要な問いかもしれない。
この知的刺激に富んだ本の共著者達は、その答えが政治にあることを確信している。
<共著者達は、>諸国が経済的成功度において異なるのは、経済の動き方と人々を動機付けるインセンティヴ、に影響を与えるところの、制度やルールが異なっているからだと主張する。
<制度やルール>は、すべて究極的には政治の産物だ。
<この本>が区別するのは、「抽出的(extractive)」な経済制度と「包含的(inclusive)」な経済制度だ。
前者の狙いは多数の犠牲の下で少数の繁栄を確保することだ。
<それに対して、>後者の狙いは全員に平等な条件で経済に関わらせることだ。
奴隷制と封建制は抽出的経済制度だ。
法が規律する(Law-governed)市場経済は、包含的な経済制度だ。・・・
・・・<包含的な経済制度を持つ>国家は、私的権力を牽制できるだけ強力でなければならない一方で、広く共有された政治的権威によってコントロールされていなければならない。
この本のテーゼは、従って、抽出的な政治制度は抽出的な経済制度を生み出す一方、包含的な政治制度は包含的な経済制度を生み出す、というものだ。
更に、この二つは、正のフィードバック関係にある。
仮に少数の人々が政治制度をコントロールしておれば、彼らは経済のゲームを自分達に都合がよいように捻じ曲げることだろう。
これが、今度は、<権力>保持者達に権力を維持するために戦うインセンティヴを与え、その他の者達には彼ら<権力保持者達>を取り除くインセンティヴを与える。
この政治のゲームは包含的な政治制度の下での方が、はるかに危険を伴わないし、より安定的でもある。
というのは、人々が自発的交換によって高い生活水準を得ることができるからだ。・・・
「地理」、「文化」、そして政策決定者達の「無知」は、いずれも、全くもって、現在の貧困を説明できない、と<彼らは>主張する。
これには大いに真実が含まれているが、地理と資源が彼らが主張するほど重要ではないというのは説得力がない。
南北アメリカ大陸の発見はそれ以降の英諸島<(=英国)>の富と力の増大と何の関わりもないというのか。
イギリスが中央アジアの内陸国であったとしても同じ結果が生じたと果たして言えるのか。
同様、豊富な流水や鉄と石炭へのアクセスが欠如した諸国が18世紀に産業革命を始めることが果たして可能であっただろうか。・・・
私は、文化的説明が極めて誤解を呼ぶものであることにも同意する。
しかし、欧州の産業と技術の進歩が世界の科学的説明に向けての変化(shift)<(=科学革命)>なくして果たして可能であっただろうか。
更に言えば、過去50年における、経済的に成功裏に飛躍してきた<政体>と言えば、香港、シンガポール、台湾、そして韓国だが、<彼ら>のテーゼが求めるような包含的な政治制度の下で迅速なる発展が始まった事例はこの中には全く存在しない。・・・」
http://www.ft.com/intl/cms/s/2/56f88be0-6213-11e1-807f-00144feabdc0.html#axzz1o1Q8hsDj
私は、地理(含む資源)については、書評子より共著者達に軍配を上げますが、文化については全く書評子の言うとおりだと思います。
何度も申し上げていることですが、マックス・ヴェーバーが指摘したように、マルクスの指摘とは逆に、上部構造たるイデオロギーや宗教、すなわち文化が転轍手として特定の社会の方向性を定め、この所与の方向性に従って下部構造たる経済(動力車)が進んで行く、というのが人類の歴史だったからです。
(政治は、転轍手として機能する場合と、経済(動力車)の運転手として機能する場合があるでしょうね。)
そのことを裏付けるのが、書評子の挙げる、香港、シンガポール、台湾、韓国の、包含的な経済制度の下での一人あたりGDPの先進国水準の達成です。
このうち、香港とシンガポールはかつて英国の植民地でしたし、台湾と韓国はかつて日本の植民地でした。
その英国と日本は、どちらも、(後でもっと詳しく説明しますが、)複数(二つ)の文化が複合した、互いに微妙に異なるけれど大変似通っているところの、文明の国です。
まさに、文化が経済を規定したわけです。
ここで、銘記すべきは、かつて日本の植民地であった台湾と韓国は、現在、包含的な政治制度の下にあるのに対し、かつて英国の植民地であった香港は包含的な政治制度の下にないし、同じくシンガポールは包含的な政治制度の下にあるとは言い難い、ことです。
どうやら、文化は政治をも規定する、と言えそうですね。
それでは、そろそろ本題に入りましょう。
本題において、たたき台にするのは、マーク・パゲル(Mark Pagel)の ‘Wired for Culture: The Natural History of Human Cooperation’ についての下掲の書評群です。
A:http://www.guardian.co.uk/books/2012/feb/23/wired-for-culture-pagel-review
(2月24日アクセス)
B:http://www.washingtonpost.com/politics/wired-for-culture-origins-of-the-human-social-mind-by-mark-pagel-and-connectome-how-the-brains-wiring-makes-us-who-we-are-by-sebastian-seung/2012/01/23/gIQAuOpYYR_print.html
(2月25日アクセス)
C:http://online.wsj.com/article/SB10001424052970204880404577227160706199518.html?mod=WSJ_Opinion_MIDDLESecondBucket
(2月25日アクセス)
D:http://www.ft.com/intl/cms/s/2/b6685630-62d3-11e1-9245-00144feabdc0.html#axzz1o1Q8hsDj
(3月3日アクセス)
なお、パゲルは、英リーディング(Reading)大学の進化生物学(Evolutionary Biology)の教授です。
http://www.evolution.reading.ac.uk/
(続く)
文化について考える(その1)
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