太田述正コラム#5338(2012.3.4)
<文化について考える(その2)>(2012.6.19公開)
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<補足>
 Bは、Sebastian Seungの“Connectome: How the Brain’s Wiring Makes Us Who We Are” についても併せ書評を行っている。
 また、CはDavid Sloanの “WilsonThe Neighborhood Project” についても併せ書評を行っている。
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2 パゲルの主張
 「・・・文化を定義するにあたって、著者は、随分前にラグラン(Raglan)卿<(注1)>によってなされた言明「猿がやらなくて我々がやる全てのものにほぼ等しい」を拝借している。
 (注1)Field Marshal FitzRoy James Henry Somerset, 1st Baron Raglan。1788~1855年。ウェストミンスター校卒。クリミア戦争の時の英派遣軍司令官。
http://en.wikipedia.org/wiki/FitzRoy_Somerset,_1st_Baron_Raglan
 若干の動物の生態研究者達は、彼らが文化とみなすものを他の哺乳類や鳥類においても見出す。
 それは、食物を確保するために初歩的な道具を使うとか独特の歌をつくりあげたりといった事例だ。
 しかし、パゲルは、これらは初歩的過ぎて文化に値しないとする。
 「<そんなものは、>チンパンジーが丸太を叩いているのをバッハのカンタータ<(注2)>と比較するようなものであり、人類の科学、技術、言語、造形芸術、音楽、文学の多様性(varieties)、工夫性(contrivance)、複雑性(complexities)、錯綜性(intricacies)と比較するに全く値しない」と。・・・
 (注2)バッハの最も有名なカンタータをどうぞ。↓
  Cantata BWV 140 歌唱:Peter Schreier
http://www.youtube.com/watch?v=__lCZeePG48
 要するに、文化とは、地球上のほとんどいかなる生息地においても人類を栄えさせることを可能にしたところの、協力と分業を通じて生み出された精神的諸属性と物理的諸対象の総ての集合(assemblage)なのだ。
 若干の古人類学者達は、ネアンデルタール人もこの意味での文化を持っていたとさえ考えているが、パゲルはこれに同意しない。・・・
 何千年にもわたり、文化が、推進力となって、たくさんの要素を束ねて、人類の進化を推し進めてきたが、その鍵となったのは言語だ。・・・
 言語は、部族の成員達が相互に通信をすることを可能にしたが、それは、個々の集団が、自分達を、その隣人達と区別をするための手段でもあった。
 人口が密集しているニューギニア島においては、異なった800もの言語があった。
 パゲルは、部族達が、意図的に自分達の言語を変更して自分達の隣人達の言語と更に違うものにしてきた事例を引用する。
 この極めて価値のある本は、どのように遺伝子群と文化とが手を携えて進化してきたかを示す。
利他主義や技能の多様性といった人類社会の核心にある諸特徴は、遺伝的性質に立脚しているが、これら<諸特徴>の進化は、協調的(collaborative)文化の下で<人類が>生きてきたという生存上の優位に依存していた。
 パゲルは、リチャード・ドーキンスと結びついているところの、「利己的遺伝子」哲学を、集団的淘汰(selection)の優位と折り合いをつける。
 人々は、協力することによって、より効果的に競争することができる、と。
 21世紀の産業化した世界は、我々の人類に特徴的な大部分の遺伝子群が進化した部族諸社会の時代<の世界>とは大きく様変わりしたにもかかわらず、パゲルは、説得力ある形で、古の心理学は我々の全球化した多文化的生存にあっても依然として好適である、と主張する。
 人間の歴史は、同時に進行した、遺伝子的進化及び文化的進化によって駆動されたところの、協力の、紛争に対する革新的な(progressive)勝利なのだ。・・・」(D)
 「・・・文化が可能となったのは社会的学習によってだ。
 我々は、異常なほど他人達を真似し写し取ることができる。
 他の生物でこれに近いことができるものは存在しない。
 一旦人類がこの<社会的学習という>トリックを学習するや、あらゆる種類の革新(innovations)を、人から人へ、集団から集団へと伝播できるようになった。
 これは、生物学的進化の氷河のような遅々たる歩みをはるかに超える速さで、文化が変化し多様化することができた、ということを意味する。・・・
 社会的学習は、協力に依存した。
 協力は、個々人が、自然世界では他に見られないほど、専門化することを可能にした。・・・
 <例えば、>アフガニスタン<に派遣されている>・・・米軍の兵士達がお互いのために死のうとすることには・・・びっくり<させられる。>
 しかし、彼らを結び付けているものは、愛国心どころか、同志愛ですらない。
 パゲルは、そうではなく、単に、彼ら「は、個々人が互いのために死ぬ用意があればあるほど、全員が死なない可能性が高まる、ということ」を知っているからだ、と述べる。・・・
 <逆説的だが、>まさに、このような、我々の類い稀なる協力能力こそが、我々をして、地球上で最も相互に分裂<して競い合ったり争い合ったりする>種にしたのだ。・・・
 社会的学習は、さもなくば見分けがつかないところの人類の小集団群において、他と異なった諸文化を<それぞれ>創造せしめたのだ。
 こうして創造されたところの多様性の<存在>目的は、<特定の>集団の成員達をして、この<自分達の>集団の人々は信頼することができる「我々のうちの一人」であると認識することを可能ならしめる手がかりを提供することだった。
 つまり、かかる内集団(in-group)の創造は、部外者達との明確な区別化(differentiation)を必然的に伴うわけだが、これこそ、時に、文化の変化の明示的目標なのだ。・・・
 世界の言語の15%が312.000平方マイルのニューギニア島で話されている<のはその極端な事例だ>。
 人々を凝集させる駆動力が、同時に彼らをして、<自分達にとって>脅威と感じられるところの、異なった全て<の人々>に対して敵対させることにもなりうる。
 だからこそ、ルワンダにおけるフツ族によるツチ族の虐殺、或いはドイツにおけるユダヤ人の第三帝国の敵扱い、がぞっとするほどのスピードで起こり得たのだ。・・・
 虐殺と独裁は、文化が「我々に対するマインド・コントロールの一形態を行使する」ことになった場合の背筋が凍る諸事例なのだ・・・。
 協力が利己主義的生存にそのルーツを持つことから、協力は、こうして見てきたように、より滋養に富んだ果物群へと発展するわけでは必ずしもないのだ。
 文化は、棘と毒も持っている<ということだ>。
 それが利己に結び付けられているがゆえに、我々の協力への意思は脆弱だ。
 例えば、専制的な諸体制は、疑念を社会諸集団内に撒き散らし、信頼を掘り崩し、かくして協力を機能マヒに陥らせることで、権力掌握度を強く維持する。
 パゲルの見解では、まさにこれこそ、このような専制的な諸体制がそれを無期限に維持することができない理由なのだ。・・・
 我々が変化しつつある世界でやらなければならないのは、我々の進化した諸能力でもって、粗っぽい目印であるところの言語、民族、や文化的違いが与えることのできない、<それらを超える、>一種の信頼、共通の諸価値、そして共有する諸目的を創造することなのだ。
 パゲルは、あらゆる形と大きさの人々が肩を寄せ合って多かれ少なかれ満足して一緒に<生きて>いるところの、巨大な世界主義的(cosmopolitan)諸都市で、これが既に起こりつつある証拠を目のあたりにしている。
 「我々の進化の歴史で、とりたてて、我々が巨大諸社会の中に住むための準備をしてくれた部分はなかった」と彼は述べる。
 しかし、サバンナで小集団で狩猟採集を行うために進化した生物<である人類>が現代世界で繁栄できるわけがない、という主張に対する斬新な返答として、パゲルは、「文化の働きのほぼ全てに関して、<人類は現代世界においても繁栄>できる」と付け加える。・・・」(A)
 なんだか、分かったようで分からないなと思われましたか?
 私のパゲル解釈を申し上げるのはもう少し待っていただき、引き続き、書評子達の言うことに耳を傾けることにしましょう。
(続く)