太田述正コラム#5358(2012.3.14)
<松尾匡『商人道ノススメ』を読む(その5)>(2012.6.29公開)
 (4)第三章
 「身内集団原理の武士道の発想では、外には利己、内へは利他と振り分けを徹底し、「トクの裏にはソンがある」とみなすことになるから、利潤をあげるという行為は買い手を食い物にする行為というふうに見える。だから、商人というものは、同胞に対して不善を働くことをなりわいにし生きている、義を知らない卑しいやからということになる。実際、<石田>梅岩<(注9)>以前の儒教道徳では、商人はそのようにみなされて、さんざんおとしめられてきた。「士農工商」と一番下位に置かれているのもその現れである。・・・
 (注9)1685~1744年。「職分説<に基づき、>・・・「商業の本質は交換の仲介業であり、その重要性は他の職分に何ら劣るものではない」という立場を打ち立てて、商人の支持を集めた。・・・倹約の奨励や富の蓄積を天命の実現と見る考え方はアメリカの社会学者ロバート・ニーリー・ベラーによってカルヴァン主義商業倫理の日本版とされ、日本の産業革命成功の原動力ともされた。・・・石門心学の開祖」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E7%94%B0%E6%A2%85%E5%B2%A9
 <それに対し、梅岩は、>商取引それ自体を他者のためにつくす善行と考え<た。>武士が君主につくすように、商人は天下の人々につくす。そうして天下の人々のために役に立ったから、その役立った人々から報酬をいただく<、と>。・・・
 <また、>石田梅岩)は>、いたるところで「正直」を説いている。・・・
 <更に、梅岩は、>商家主人の独断をいましめて幹部の合議を説いている。しかも、それでも決まらない時は従業員の総会で自由に議論させて投票しろ、・・・従業員みんなで意見しても聞き入れないわがままな主人は隠居させてあてがい扶持にしろ、などと激しいことを公然と掲げている。
 当主の隠居は、・・・商家では普通のルールだし、旗本、大名にも事例がある。しかし、従業員の総会でものごとを決める発想は、当時はほかにはなかったのではないだろうか。」 (90、93~94、97)
 まさに、松尾は、ツッコミどころのデパートといった趣があります。
 まず、松尾の江戸時代の身分制度観は、完全な誤りです。
 マンガじゃないのですから、話を面白くするためにフィクションを書いちゃいけません。
 「士農工商の概念と実際の身分制度は大きく異なっている。江戸時代の諸制度に実際に現れる身分は、武士を上位にし、その下に「百姓」と「町人」を並べるものであ<り、>・・・両者の間に上下関係はなかった。また、町人の職業が「工」か「商」かを制度的に区別することはなく、商人を職人より冷遇する制度もなかった。そして百姓の生業も農業に限られるものではなく、百姓身分で「商」や「工」に属するはずの海運業や手工業などによって財を成した者も多くいた。・・・そもそも、士農工商に含まれない職業(身分)、(公家・僧侶・神主・検校・役者、穢多、非人など)も相当数おり、これらも公認の身分を保持していた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A3%AB%E8%BE%B2%E5%B7%A5%E5%95%86 
 次に、「武士が君主につくすように」、といかにも武士は「身内集団原理」で動いていたかのように彼は言うけれど、君主を含む武士は、松平定信(1759~1829年)が、晩年の著書『楽翁公遺書』の中で、「治世者は私心ではなく、天下の公理、すなわち世論、を踏まえて治世を行わなければならない。」という趣旨のことを述べている(コラム#4170)ことからも分かるように、「天下の人々につくす。・・・天下の人々のために役に立」つことを行うのが武士の本分であり、この武士にとっての常識を、単に梅岩が商人道を論ずるにあたって借用しただけである、と見るべきでしょう。
 また、「従業員<、すなわち、構成員>の総会でものごとを決める発想は、当時はほかにはなかったのではないだろうか」と松尾は言っていますが、江戸時代の農村において、かかる「発想」どころか、かかる慣行が広範に普及していた(コラム#1607)ことに彼は目を完全に瞑っています。
 さて、松尾はこの章の最初の方で以下のように記しています。
 「日本においても、開放個人主義原理の倫理観は、江戸時代には間違いなく立派に存在していた。「商人道」こそがそれである。それは、明治維新以降の独特の倫理体系の仕組みのもとで押さえ付けられてしまったが、絶滅したわけではなかった。そしてそれが、戦後の成長と経済繁栄を支えるひとつのエートス(無意識の内心の動因)として引き継がれてきたのである。私達はそれを自覚してメジャーな位置に広げるだけでよい。」(86~87)
 しかし、およそこんな議論はナンセンスです。
 梅岩は、あくまでも、職分説に基づき、士農工商等の職分のうちの一つの職分たる商人に関する道、すなわち倫理道徳、を説いたに過ぎないのに対し、江戸時代の武士道は、武士という一つの職分に関する道であると同時に、職分を超えた、全体に係る道であったのであり、梅岩の説いた商人道は武士道と対置されるべき存在ではなく、武士道の一環であったと見るべきだからです。
 松尾自身、「現存封建体制を受け入れて、身分に応じた分を守って、本分の仕事にはげむべきことを説くのだから、支配者側にとって好都合な思想である側面があったことは間違いない。梅岩死後、その思想を引き継ぐ「心学」・・・の門徒は、町民のみならず、農民にも広がり、さらに武士階級にも浸透していく。やがて松平定信<(!(太田))>の信頼を得て幕閣や大名に入門者が現われ、その庇護のもと幕府の庶民教化政策の一環を担うようにな<る。>」(105)ことを認めているのですから、何をかいわんやです。
 私に言わせれば、松尾は、江戸時代の政治経済体制の下での倫理道徳の全体像を描くべきだったのです。
 ご承知の通り、私は、江戸時代の政治経済体制は、昭和期に確立する日本型政治経済体制の前駆形態であると見ており、この二つがいずれも人間主義(的倫理道徳)に立脚している、と考えているわけです。
 確かに、松尾が紹介する梅岩の商人道は、人間主義的です。
 「<梅岩は、>「身内には無限の奉仕、外部には無視」とする身内集団原理・・・<の>典型<である>武士道・・・とは、全く対極にある発想<を抱いており、>・・・「人は貴賤に限らずことごとく天の霊なり。貧窮の人といえども、一人飢えるときは、直に天の霊を絶つに同じ」と<述べている。>・・・<こ>の救貧主張は、・・・一種の博愛思想であり、近代的ボランティアに通じる。実際、梅岩とその弟子たちは、飢饉や災害に際して、・・・お金を施与し<た>り、・・・飯を炊いて握り飯を作り、・・・被災者に分かち与えたと言う。」(19、98~99)
 しかし、江戸時代の武士道だって人間主義的だったのであり、松尾が、江戸時代の武士道を(非人間主義的で慈善とは無縁の)「身内には無限の奉仕、外部には無視」する典型的な身内集団原理の道徳である(19、98)、としているのは誤りなのです。
 「享保の改革の際、1722年に江戸の小石川御薬園内に無料療養施設である施薬院(小石川養生所)が設けられていますし、18世紀後半の寛政の改革の際には、人足寄せ場(江戸の石川島にもうけた浮浪人の収容所であり、刑期を終えても引き取り人のない者や無宿人を強制的に収容し、公共事業に従事させた)が設けられています<(注10)>。・・・明治の初期においても、企業家による慈善活動が活発に行われたのは、その多くが武士階級出身であった企業人が、利益よりむしろ公益を重んずる武士道を身につけていたからだ、という指摘が・・・なされています」(コラム#614)
 (注10)このほか、以下が良く知られている。
 「当道座・・・とは、中世から近世にかけて存在した男性盲人の自治的互助組織。・・・江戸時代には、江戸幕府から公認され、寺社奉行の管理下におかれた。・・・座中の官位(盲官と呼ばれる)は、最高位の検校から順に、別当、勾当、座頭と呼ばれていたが、それぞれは更に細分化されており合計73個の位があった。・・・官位であるために、検校ともなれば社会的地位はかなり高く、将軍への拝謁も許された。さらに、最高位の長である惣検校となると大名と同様の権威と格式を持っていた。江戸時代においては、当道座は内部に対しては、盲人の職業訓練など互助的な性質を持っていたが、一方では、座法による独自の裁判権を持ち、盲人社会の秩序維持と支配を確立していた。・・・外部に対しては、平曲(平家琵琶)及び三曲(箏、地歌三味線、胡弓)、あるいは鍼灸、按摩などの職種を独占していた。これは、江戸幕府の盲人に対する福祉制度としてとらえられていた。・・・このような盲人への保護政策により三味線音楽や近世箏曲、胡弓楽の成立発展、管鍼法の確立など、江戸時代の音楽や鍼灸医学の発展が促進された・・・。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%93%E9%81%93%E5%BA%A7
 なお、ここにも日本型政治経済体制の前駆形態を見出すことができる。
 以上から、梅岩は、武士の人間主義を商人も共有するよう促し、その一環として慈善を奨励するとともに、自ら商人達の先頭に立って慈善を実践したに過ぎないことがお分かりになると思います。
 また、松尾が、梅岩流の商人道をアングロサクソン的な開放個人主義原理と同じようなものとしていることも誤りです。
 なぜなら、開放個人主義原理そのものには、人間主義、とりわけ慈善は内包されていないからです。
 英本国による開放個人主義原理の強制が、大英帝国の非白人植民地に産業荒廃や飢饉等の凄まじい惨禍をもたらしたこと(コラム#5352)、また、英国が、アヘン戦争とアロー戦争で、清に開放個人主義原理を押し付け、支那を列強の半植民地化し、(注11)、爾後1949年までの間、支那は無秩序状態に陥り、国土及び人心が荒廃したこと・・一世紀の国恥(century of national humiliation)・・、
http://www.guardian.co.uk/books/2012/mar/13/scramble-for-china-robert-bickers-review
その悪影響を、中共による統治という形で、いまだに支那は払しょくできていないこと、を思い出してください。
 (注11)「<1840年に「麻薬の密輸」<を続けるために清と>開戦<したイギリスは、>・・・1842年・・・、<清との間で>江寧(南京)条約に調印し、阿片戦争(第一次阿片戦争)は終結した。この条約で清は多額の賠償金と香港の割譲、広東、厦門、福州、寧波、上海の開港を認め、また、翌年の虎門寨追加条約では治外法権、関税自主権放棄、最恵国待遇条項承認などを余儀なくされた。
 ・・・この戦争をイギリスが引き起こした目的は大きく言って2つある。それは、東アジアで支配的存在であった中国を中心とする朝貢体制の打破と、厳しい貿易制限を撤廃して自国の商品をもっと中国側に買わせることである。しかし、<後者の>・・・目論見は達成されなかった。・・・これを良しとしなかったイギリスは次の機会をうかがうようになり、これが・・・アロー戦争へとつながっていくことになった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E7%89%87%E6%88%A6%E4%BA%89
 「1840年のアヘン戦争後の南京条約<では>、・・・<イギリス商人が>内地へと入ることは認められておらず、また清国内での反英運動も激しくなり、イギリスが期待した程の商業利益は上がらなかった。<そこで、>・・・イギリスの政界では、再び戦争を起こしてでも条約の改正を求めるべきだとの意見が強くなってきた。その絶好の口実とされたのがアロー号事件である。<こうしてアロー戦争(第二次阿片戦争)が始まった。>・・・
 1860年、・・・北京条約が締結された。この条約により清は、天津の開港、イギリスに対し九竜半島の割譲、中国人の海外への渡航許可などを認めさせられた。最後の渡航許可というのは中国人労働者を劣悪な条件で移民させる苦力貿易を公認するものである。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AD%E3%83%BC%E6%88%A6%E4%BA%89
(続く)