太田述正コラム#5362(2012.3.16)
<松尾匡『商人道ノススメ』を読む(その7)>(2012.7.1公開)
日本の武士道は、既に、戦国時代の末期に、支那にまで知られるに至っていました。
明の戚継光(Qi Jiguang)<(注15)>は、『紀效新書(Ji Xiao Xin Shu)』の中で、ポルトガルの小銃を改造し改善した日本の小銃に言及していますし、明末清初の(日本人の母親の下に日本で生まれた)鄭成功(コラム#706、4854、5108)の活躍は、彼が体現していたところの、忠誠(loyalty)、正義(righteousness)、敬天(favor of Heaven)といった(日本の)武士道精神(samurai sense)を支那に鳴り響かせたのです。
http://www.atimes.com/atimes/China/NC16Ad03.html
(3月16日アクセス)
(注15)1528~87年。「明代の武将・・・。倭寇及びモンゴルと戦ってともに戦果を挙げた」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%9A%E7%B6%99%E5%85%89
「<紀效新書は>1560年・・・に初版され、これを十八巻本という。また、後に手を加え・・・1588年・・・に出版されたものを、十四巻本という。十四巻本は、・・・1561年・・・に倭寇との戦場で入手した、『陰流之目録』を載せていることで知られる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%80%E6%95%88%E6%96%B0%E6%9B%B8
「『紀效新書』<や同じく戚継光による>『錬兵実紀』などの兵学書・・・が清末に注目されるようになり、まず太平天国の乱の鎮圧に当たった曽国藩がこれをもとに自らの軍を整備する。さらにしばらくして中国に対する日本の侵略がなされるようになると、倭寇を討伐した経歴を持つ戚継光の業績を称える風潮が起るようになった。日本でも、・・・荻生徂徠が『紀效新書』を高く評価した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%9A%E7%B6%99%E5%85%89 前掲
武士道は江戸時代に成立したという前提に立っている松尾は、「武士道と言ふは死ぬことと見つけたり」で有名な『葉隠』でそれを代表させた上で、同書(の現代語訳)には、「釈迦も孔子も楠正成も武田信玄もかつて鍋島家に奉公したことのない以上は崇敬しなくていい」とか、「武士にとって「芸は身を滅ぼす」と<し、>学問も戒め<たところ、それは、>・・・武士道とは「死に狂い」だから、分別があってはいけないからである」とか、「藩と藩主に対しては常時命を捨てる覚悟での無条件の奉仕を求め<た>」といったとんでもないことが記されている、としています。(89、276)
しかし、この『葉隠』は、「禁書に付され広く読まれることは無かった」
α:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E9%B9%BF%E7%B4%A0%E8%A1%8C
ことだけからも、この本が江戸時代の武士道を代表するものと言えそうもないことが明らかでしょう。
他方、松尾は山鹿素行を完全に無視しています。
これは、山鹿を極めて重視する武士道に関する日本語及び英語ウィキペディア
β:http://en.wikipedia.org/wiki/Yamaga_Sok%C5%8D
とは対照的です。
山鹿素行(注16)は、古学(注17)と山鹿流兵法(注18)を興した人物です。
(注16)1622~85年。[哲学者、戦略家、儒学者。]浪人を父として「会津に生まれ、・・・6歳で江戸に出る。・・・9歳のとき大学頭を務めていた林羅山の門下に入り朱子学を学び、15歳からは・・・軍学<と>・・・神道を、それ以外にも歌学など様々な学問を学んだ。朱子学を批判したことから播磨国赤穂藩へお預けの身となり、そこで赤穂藩士の教育を行う。・・・同藩国家老の大石良雄も門弟の一人である。・・・1675年・・・許されて江戸へ戻り、その後の10年間は軍学を教えた。[彼は、孔子の「君子」の観念を武士に適用した。また、天皇を全ての忠の焦点であるとした。]その教えは、後代の吉田松陰などに影響を与えている。」(α、β([]内))pointed to the emperor as the focus of all loyalties
なお、山鹿素行のウィキペディアもαよりβの方が質量ともに上回っている!
(注17)「後世の解釈によらず、論語などの経典を直接実証的に研究する・・・学問・・・<であり、>国学などに影響を及ぼした。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E5%AD%A6%E6%B4%BE
(注18)「諸藩でも普及し・・・長州藩では吉田松陰が相続した吉田家は代々山鹿流師範家であり、松陰も藩主毛利敬親の前で<山鹿素行著の>「武教全書」・・・の講義を行っている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E9%B9%BF%E6%B5%81
「<古学の、実証的に研究するという方法論が、>彼をして、オランダ人が紹介したところの、欧米の兵器や戦術の研究の必要性に注意を払わしめた。」(β)
私は、そもそも、武士の戦士としての実証主義や合理主義や国際主義、すなわち弥生モードが、戦国時代の末期に頂点に達し、江戸時代に入って、古学を生み出した、と考える。
βは、ウィリアム・スコット・ウィルソン(William Scott Wilson)<(注19)>に拠って、「素行は、武士を儒教的純粋性に関する社会の他の階級の範例(example)であるとするとともに、かかる道から逸脱する者達の処罰者であるとした。・・・彼は、平和な諸芸、文学、及び歴史は、武士の知的修養(discipline)に不可欠であると強調した。素行は、かくして、武士階級が、純粋なる軍事貴族から、増大しつつあった政治的知的指導層の一員へという歴史的変貌を象徴している<人物である>」とし、また、シュウゾウ・ウエナカ(Shuzo Uenaka)<(注20)>に拠って、「彼のほぼ同時代人である松平定信の生涯は、山鹿の生涯をより十分理解し評価するための恐らくは有用なる文脈を提供して<おり、>両者とも、儒教の社会的(civic)かつ個人的諸価値を完全に信じていたけれど、両者は、これら<諸価値>について、彼らが生きた江戸時代の社会に即して、<支那における>解釈とはいささか異なった<ところの、あい似通った>解釈を行った」とし、更に、デーヴィッド・マガレイ・アール(David Magarey Earl)<(注21)>に拠って、「<山鹿素行は、支那に比べてさえ、>日本は明確に上位にある。なぜならば、日本は神々に愛でられているからだ。それは、神々自身から皇統へと血筋が絶えることなくつながっているのは<世界中の国の中で>日本だけだからだ<、と述べている>」としています。
(注19)1944年~。ダートマス大学等卒、ワシントン大学修士。米国人たる、武士に係る日本の文学の英訳家。
http://en.wikipedia.org/wiki/William_Scott_Wilson
(注20)1977年に上智大学発行の学術雑誌に彼の論文の英訳が掲載されている
http://www.jstor.org/discover/10.2307/2384025?uid=3738328&uid=2129&uid=2&uid=70&uid=4&sid=47698761836767
ので、当時、上智大学の教員であった可能性が高い。
(注21)元東ミシガン大学歴史学教授。
http://www.britannica.com/bps/user-profile/820/David-Magarey-Earl
つまり、私の言葉に置き換えれば、山鹿素行こそ、それまでの弥生モード(ないし有事)における武士道を維持しつつ、それに、縄文モード(ないし平時)における為政者道を重畳的に付加した拡張武士道、すなわち江戸時代の武士道、を提唱した最初の人物なのです。
この素行の拡張武士道は、赤穂浪士事件を通じて江戸時代の全職分に大きな影響を及ぼすとともに、吉田松陰を通じて明治維新の原動力の一つになって行くわけです。
(ウエナカの論文はネット上では最初の頁しか読めないので、彼の真意が必ずしも明らかではありませんが、)私は、素行と比べて、その同時代人というより、同じ江戸時代でもかなり後で登場した松平定信(1759~1829年)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%AE%9A%E4%BF%A1
は、素行の「古学に通じ」ていたにもかかわらず、老中首座として寛政の改革を推進した際には、「田安家<が>徳川将軍家の藩屏として朱子学を奉じるべきであると主張して<いたことから>、<田安家出身の>定信<としては、>幕府の・・・昌平坂学問所<においてだけ>では<あったけれど、>朱子学以外の講義を禁じ、蘭学を排除<するという反素行的な>・・・寛政異学の禁を出<さざるをえなかった」(「」内はウィキペディア上掲)ものの、老中を退いてからは、心置きなく素行の拡張武士道を踏まえた著作を残した、と解しています。
「新渡戸<稲造>はキリスト教徒の多いアメリカの現実(拝金主義や人種差別)・・・<そして、その>根っこにある<裸の>個人主義・・・に衝撃をうけ・・・<日本の>封建時代の武士は・・・社会全体への義務を負う存在として己を認識していた<、とその著書『武士道』の中で>指摘」(α)しましたが、新渡戸が紹介した武士道は、まさに素行や定信の、この拡張武士道であったのです。
(続く)
松尾匡『商人道ノススメ』を読む(その7)
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