太田述正コラム#5380(2012.3.25)
<松尾匡『商人道ノススメ』を読む(その15)>(2012.7.10公開)
「ロシア革命後のソビエトロシアの歩みと、明治維新後の日本帝国の歩みと、敗戦後の日本の歩みがよく似ている・・・。ともに急速な工業化を成し遂げて、出発点から40年ほどして絶頂期を迎え、出発点から50年ほどして改革が迫られる。しかし体制の根幹に触れない修正にすぎないので、経済停滞が続き、ソ連や戦前の日本の場合には、その後対外侵略と孤立化を進め、出発点から約75年目にして崩壊に向かっている。」(207)
このくだりについては、日本の戦前史と戦後史を分断されたものとしている点、及び、日本の戦前史と戦後史をそれぞれソ連の歩みに準えている点、において嘆かわしい限りです。
まず、前者についてですが、松尾は、野口悠紀雄『1940年体制–さらば「戦時経済」』に全面的に拠りつつ、この体制・・私が日本型政治経済体制と呼ぶところのもの・・が「1940年代に・・・完成<す>る」(192)と記し、≪革新官僚らは反政党、反営利的傾向を持ち、企業は利潤追求ではなく国家目的のために生産性をあげるべきだと考え・・・、いわゆる所有と経営の分離を推し進め、株主の権限を制限し、各種事業法や営団・・・などの手段により、国家が生産活動を直接コントロールする体制を作り上げた。また、株主の影響力を抑えるために、資金調達は銀行の貸付けを中心とするようにし、・・・日本銀行<等>を使って金融面からも経済をコントロールできるようにした。・・・統制は、価格、賃金、雇用など経済活動のあらゆる面に及び、特に、賃金・雇用統制は、・・・労働者を受動的な被雇用者から企業共同体の正規メンバーへと変えた≫(192~193)とした上で、「結局、資本主義市場経済という「逸脱」を許さず、「大義名分」たる国家身内共同体の原理を貫き通そうという志向、これが軍国主義をもたらした力学だったのである」(193)としています。
上記≪≫内は、ほんの少し戦時体制色の強い部分を削ぎ落としたけれど、この体制の核心部分をとらえていると考えるところ、戦後においても、つい最近まで、この体制の核心部分が維持されたことは、松尾といえども、否定はできないはずです。
ということは、(私が、以前から累次申し上げていることですが、)政治経済体制において変化がないのですから、戦前史と戦後史を分断されたものと見ることはできない、ということになるはずです。(注41)
(注41)戦前から戦後にかけて、日本が同一元首の下にあったこと、そしてこのことによって、昭和が元号制度を持ったあらゆる国、王朝の中で、現時点で最も長い元号である・・2番目は清の康熙(61年)、3番目は清の乾隆(60年)・・こと、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%AD%E5%92%8C
は単なる歴史の偶然と片づけられない意味を有すると思う。
なお、そうなると、松尾が、この体制が戦前において「軍国主義をもたらした」としていることは、(ついうっかりしたのでしょうが)とんだお笑い草です。
なぜなら、この体制は、戦後においては、今度は「平和主義をもたらした」ということになってしまうからです。
次に、後者についてですが、松尾の主張は、幕末から現在まで一貫して横井小楠コンセンサスの下にある日本に対する冒涜である、などとケチなことは言わないとしても、私には到底理解不能です。
戦前史と戦後史が分断していないとすれば、それだけで維新後の日本史をソ連史に準えることなどできなくなるわけですが、そもそも、維新から大正期までは、(イデオロギー面はさておき、)政治経済体制面においては、日本は、ひたすら、松尾的に言えば開放個人主義原理に基づくアングロサクソン化の道をひた走ったのであり、そんな日本を、同じく松尾的に言えば身内集団原理の極限と言うべき、スターリン主義を堅持したソ連に、いかなる意味においても準えることなどできないはずだからです。(注42)
(注42)アゼモルーとロビンソンの本をコラム#5336、5346で批判したところだが、それは、彼らが、政治経済体制を最重要視し、その背後にある文化的ないし文明的要因を無視している点への批判であって、彼らが展開する政治経済体制論そのものが間違っているわけではない。
その二人は、「抽出的(extractive)」ならぬ「包含的(inclusive)」な政治経済体制の典型例として、イギリスにおける名誉革命、日本における封建制度を打倒した明治維新、そしてボツワナ(Botswana)における英植民者達の民主主義的追放、の三つをあげている。
その上で、この二人は、ソ連が1950年代、1960年代を通じて高度成長をとげたけれど、経済を革新することができず、停滞し、やがて崩壊した道程を中共も辿るだろうと予言している。
専制的経済成長は長くは続かない、というのだ。
http://online.wsj.com/article/SB10001424052702304724404577293714016708378.html?mod=WSJ_Opinion_LEFTTopOpinion (3月25日アクセス)
しかし、中共は改革開放以降、日本型経済体制を採用したのではなかったか。
とすれば、日本型政治経済体制下にいまだ基本的にある日本だって、停滞が今後とも続き、やがて崩壊するのではないのか?
いや、トウ小平以降の中共は日本型経済体制を採用したけれど、政治体制を含めた日本型政治経済体制全体を採用したわけではない。
すなわち、抽出的な政治体制と包含的な経済体制という歪な政治経済体制下に現在の中共はある。
同じく日本型経済体制を採用した台湾も韓国も、同様、歪な政治経済体制下で高度経済成長が始まったが、その過程で政治体制も包含的なものに切り替えることに成功し、現在も着実に経済成長が続いているところ、一党独裁制の下にある中共では、同じことはできないか、ほとんど不可能だ。
だから、この二人の中共についての予言は的中することだろう。
他方、政治体制も経済体制も包含的な日本は、早晩、日本の米国からの「独立」を梃子としたところの、日本型政治経済体制とアングロサクソン型政治経済体制とを止揚した政治経済体制への変貌等の方法で、崩壊を免れ、停滞を脱するに違いないのだ。
(9)第八章/第九章
「吉田茂、池田勇人といった保守本流政権が定めた軽軍備通商国家路線こそ、戦後日本の繁栄につながった枠組みだったことは間違いない。これによって、戦後日本の経済人は、より安く、より良い品を作るために資源を振り向けることができた。」(232)
狭義の軍備に係る政府支出が経常支出であって政府投資支出よりも乗数効果が低いことだけを見てはいけません。
鉄道も港湾も高速道路も空港等の公共投資も広義の軍備の側面があることに鑑みれば、戦後の軽軍、というより軍事放棄戦略は、公共投資の焦点をぼかしてしまい、公共投資の夥しい無駄の垂れ流しを招来してしまった、とも言えるでしょう。
また、軍事放棄戦略の結果たる(核・ロケット関係を除く)軍事研究開発の事実上の放棄は、日本が先進国に追いついたころから、自主科学技術開発能力の欠如に起因する日本経済の長期停滞をもたらした、とも言えるでしょう。
「1980年代前半、戦前の日露戦争時に比すべき高慢なナショナリズムが興りはじめた。そのとき、これに抗して、・・・罵詈雑言を浴びながら、戦後通商国家路線を擁護したのは、通産官僚の天谷直弘<(コラム#2366、3433)>であった。・・・
そして、『日本町人国家論』を著し<た。>」(233)
「さんざん「押しつけ」呼ばわりされながら、戦後憲法は日本国民に受け入れられ、根付いてきた。なぜか。–この理念が商人道の理念と一致しているからではないか。」(250)
このくだりは、松尾と私の世界観とか価値感の違いを持ち出すまでもなく、明白な誤りです。
(なお、天谷の主張は、一通産官僚が、官僚機構の中では本来的に「軽い」部署に勤務していたことからくる井の中の蛙的な思い込みをそのまま吐露しただけのことですから、およそコメントするに値しません。)
松尾は、江戸時代について犯した誤りを、戦後日本についてもやらかしているのです。
すなわち、江戸時代においては、武士が日本の安全保障と統治の基本を担っていたからこそ商人は商人道に勤しむことができたというだけのことですし、戦後日本においては、宗主国たる米国が日本の安全保障と統治の基本を担っていたからこそ日本人の大部分が商人道(町人道)に勤しむことができたというだけのことだからです。
松尾は、社会の一部分だけを見ずにその全体をも併せ見なければ、その一部分のことも的確には理解できない、という社会科学のイロハを、マルクスの著作等を通じて学ばなかったのでしょうか。
ついでに言えば、松尾が戦後日本を評価しているのか評価していないのか・・三菱重工爆破事件についての松尾の記述を想起して欲しい・・今一つよく分からない点も読者泣かせです。
結論を急ぎましょう。
「今、丸山真男ら近代主義の復権の気運がある。・・・
丸山達は、市場経済のなりわいと無関係なところに「公共性ある個人」を求めていたから、そのイメージは欧米から知識人が借りてきたもののように思われ、一般人には修得不可能だと反発されたのである。しかし、本書において交換取引行為から望ましい個人像を導きだした私達は、丸山的「公共性ある個人」がそんなに超人的なものではないことを知っている。それは「商人道」だったのだ。それは欧米に限らず、流動的人間関係を秩序付けるためには必ず必要な、人類普遍の倫理だったのだ。だから、日本にないものを押し付けてくるという反近代主義者からの批判も、日本にないからけしからんという近代主義者の裁断も、ともに間違っていたのである。
要するに、最もキーとなるのは、「見も知らぬ他人にもわけへだてなく誠実であれ」という、それだけのことである。これは・・・決して簡単なことではないが、しかし一般凡人に全く不可能な超人わざでもない。日本人も連綿とこれまでやってきたことだ。努力して心がけるぐらいはできる。」(244~245)
「最もキーとなるのは、「身も知らぬ他人にもわけへだてなく誠実であれ」という・・・ことである。」というのですから、何ということもない、松尾もまた、紛れもなく、私と同じ、人間主義者であったというわけです。
また、丸山真男に対して批判的なところも、彼は私と共通しています。
となると、松尾と私の違いは、彼が、「アングロサクソンは一貫してその大部分は人間主義者であるところ、かつての日本人の一部は人間主義者だったが現在は人間主義者はいなくなっている」と考えているらしいのに対し、私が、「(米国と純正アングロサクソンとでは程度に差があるものの)アングロサクソンは一貫してその大部分がせいぜい人間主義的であるのに対し、日本人は一貫してその大部分が人間主義者である」点にある、と要約できそうです。
あなたは、この点で、一体二人のどちらが正しいと思いますか?
その違いは、基本的に松尾と私の世界観ないし価値観の違い以前の、松尾の社会科学者としての懈怠に拠って来る部分が大きいことからすれば、その答えは自ずから明白でしょう。
(続く)
松尾匡『商人道ノススメ』を読む(その15)
- 公開日: