太田述正コラム#5398(2012.4.3)
<黙示録の秘密(その6)>(2012.7.19公開)
(6)種々の啓示書の中でなにゆえ黙示録だけ生き残ったのか
「・・・パゲルスの本質的ポイント・・啓示<、すなわち黙示録>は小アジアと聖なる地一帯にあった、ヨハネによるものはこの沢山あったもののうちの一つに過ぎない、そして我々は黙示録をそのようなものとして読まなければならない・・は、説得力があり啓蒙的だ。・・・」(B)
「・・・<黙示録の>著者たるパトモスのヨハネは、ユダヤ人予言者でイエスの追従者であり、彼の母国であるユダヤを荒廃させた戦争を逃れた後、紀元90年前後に恐らく<それを>書き始めた。
しかし、彼の黙示録はユニークな存在ではなかった。
当時、ユダヤ人達、異教徒達、そしてキリスト教徒達といった無数の他の人々が、聖なる秘密群を開示すると主張しつつ、山のように「黙示録」を生み出していた。
そのうちのいくつかは何世紀にもわたって<その存在が>知られてきた。
それに加えて、約20篇が、1945年にエジプトのナグ・ハマディ(Nag Hammadi)で発見された。<(注20)>
(注20)「ナグ・ハマディ写本あるいはナグ・ハマディ文書(The Nag Hammadi library)は1945年に上エジプト・ケナ県(《Qena Governorate》)のナグ・ハマディ村の近くで見つかった、パピルスに記された初期キリスト教文書。
農夫・・・が壷におさめられ、皮で綴じられたコデックス(《codex→codices(複)。》冊子状の写本)を土中から掘り出したことで発見された。写本の多くはグノーシス主義の教えに関するものであるが、グノーシス主義だけでなくヘルメス思想<(コラム#411)>に分類される写本やプラトンの『国家』の抄訳も含まれている。・・・、本書はもともとエジプトのパコミオス派([Pachomian])の修道院に所蔵されていたが、司教であったアレクサンドリアのアタナシオスから367年に聖書正典ではない([non-canonical])文書を用いないようにという指示([Festal Letter])が出たために隠匿されたのではないか<という>。
写本はコプト語で書かれているが、ギリシャ語から翻訳されたものがほとんどであると考えられている。写本の中でもっとも有名なものは新約聖書外典である『トマスによる福音書([Gospel of Thomas])』である(同福音書の完全な写本はナグ・ハマディ写本が唯一)。・・・本写本の成立はギリシャ語で『トマスによる福音書』が書かれた80年[頃]、すなわち1世紀から2世紀で、土中に秘匿されたのが3世紀から4世紀であるとみなされている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%82%B0%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%9E%E3%83%87%E3%82%A3%E5%86%99%E6%9C%AC ☆
http://en.wikipedia.org/wiki/Nag_Hammadi_library ([]内)
http://en.wikipedia.org/wiki/Nag_Hammadi (《》内)※
なお、「コプト・エジプト語 (・・・Coptic Egyptian・・・) もしくは近代エジプト語 (Modern Egyptian) とは4世紀以降のエジプト語をさす用語である。この時期のエジプト語は当時のエジプトを<含む東地中海世界・・ヘレニズム世界、及びそれを引き継いだ>東ローマ帝国<・・>の公用語であるギリシア語の影響を語彙・文法・表記などの面で強く受けており、この時代以降のエジプト語の言語体系にも基本的にそれが引き継がれているため、この時期を境にそれ以前のエジプト語と区別している。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%97%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%82%B8%E3%83%97%E3%83%88%E8%AA%9E
私の父親も母親も、揃いも揃って、考古学や宗教にほとんど関心がなかったので、私は、4年近くエジプトに住んでいながら、ナグ・ハマディの南西80kmにあるルクソール(※)・・古代エジプトの都テーベがあった・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%82%BD%E3%83%BC%E3%83%AB
にも、スーダンとの国境近くの、あの有名なアブシンベル神殿
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%96%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%83%99%E3%83%AB%E7%A5%9E%E6%AE%BF
にも、また、上出のナグ・ハマディ文書が収蔵されている、カイロのコプト博物館(☆)にも、はたまた、カイロのキリスト教コプト派の教会のいずれかにも、連れて行ってもらっていないが、これは、今思えば、まことに残念なことだった。
<ヨハネの>黙示録とは違って、その他のものの大部分は世界の終末についての書ではなく、世界の中で聖なるものを今発見することについての書だった。
その多くは、神との直接的接触を求めることの奨励だったが、この<種の>メッセージについては、最終的には初期のキリスト教の指導者達は抑圧することを選択した。・・・
2世紀以降、ローマの行政長官(magistrate)達が、<キリスト教徒達>のうちの最も直言的なメンバー達を逮捕し処刑することによって自分達に近しい諸集団がズタズタにされるのを見たところの、キリスト教の指導者達は、ヨハネの黙示録は、神のローマに対する勝利を予言していたがゆえに、<自分達が直面している>諸危機について直接的に語って<くれて>いる、と感じた。
<だから、>このようなキリスト教徒達は、この書をその他のものよりも擁護することとなった。
<そのうちの>幾ばくかは、<更に一歩を進めて、>自分達の、より普遍的な諸ヴィジョンに基づき、その他の黙示録に対して、それらは非正統的で異端的<な書>である、と<積極的に>指弾(challenge)した。・・・」(F)
「・・・パゲルス女史による<以前に上梓された>画期的な本が取り上げたところの、いわゆるグノーシス<(コラム#1169、3041、3678、3682、3710、4226)>主義の(Gnostic)福音書群が、上エジプトのナグ・ハマディで1945年に発見された。
その場所で、学者達は、その他の、それまで知られていなかった何ダースもの黙示録群も発見した。
これらの巻に関する中心的疑問点の中に以下の一つがあった。
それは、なにゆえ、ヨハネの黙示録が新約聖書に収録された唯一のものになったのか、だった。
パゲルス女史は、この疑問点を様々な角度から解明しようとしたが、ヨハネの諸啓示<、すなわち黙示録>は、宗教的(spritual)選良に狙いを定めていたところの、その他の多くの<黙示録群>ほど秘教的ではないと示唆してきていたところの学者達と、<彼女は見解が>一致していた。
<パゲルスを含め、彼らは、>ヨハネは、広汎な大衆に狙いを定めていた<、という>のだ。・・・」(C)
「・・・<この本の>最終の諸章は、ナグ・ハマディで発見されたところの、抑圧された「啓示群<、すなわち黙示録群>」のいくつかについてのすっきりとした要約を提供している。
ここでなされる、最も興味深い分析は、何ゆえにヨハネの「啓示<、すなわち黙示録>」が繁栄し、その他の諸ヴィジョンは息の根を止められてしまったのかを示唆している。
要するに、グノーシス主義の著述者達<の黙示録群>は、余りに愛らしく、余りに抱懐的で、余りに普遍的であったために政治的効果を有さなかった、とパゲルスは主張する。
これに対し、パトモスのヨハネは、善と悪との間の赤裸々な戦い、及び、誰でも自分の敵に対して用いることができるところの、<他者を>貶める一連の墓碑銘群・・「臆病者どもの、信仰心の無い、唾棄すべき、汚い…そして全員嘘つきの」・・という堪えられないもの、を提供したのだ。
真の信者達を神の戦士達という普遍的に柔軟な言葉と同定させることは、福音書群<の>・・「見知らぬ人を歓迎せよ」、「裸の人には衣類を与えよ」、「病の人は世話をしてやれ」、「囚人は訪問してやれ」・・<といった記述に適っているかどうかという>単純なテストよりもどれほど役に立つことか、とパゲルスは言う。
確かに、その種の水気がなくてぱさぱさした口当たりの(mealy-mouthed)文句でもって支持者達を暴力的行動へと駆り立てることなど誰にもできやしないだろう。・・・」(A)
(続く)
黙示録の秘密(その6)
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