太田述正コラム#0100(2003.2.18)
<アングロサクソンと欧州――両文明の対立再訪(その1)>
国際メディアの中にも、昨今の対イラク戦をめぐる欧州と英米の軋轢について、まだまだ修辞論の域を越えてはいないものの、文明の対立ととらえる論調が散見されるようになりました。(例えば、http://www.latimes.com/news/nationworld/world/la-fg-assess15feb15,1,969556.story?coll=la%2Dhome%2Dheadlines(2月15日アクセス)。)
以前から本コラムに親しんでこられた読者ならばよくご存じだと思いますが、私は世界の近現代史を貫く最大のテーマは欧州文明とアングロサクソン文明の対立だと考えており、この二つの文明それぞれの特質及び両文明のせめぎ合いについて、何度もコラムの中で触れてきたところです。(例えば、コラム#4の総論、#46から始まる、「その1」から「その10」に至るアングロサクソン論、そして#96、更には欧州文明論の#61及び#71、等々を参照のこと。また、アングロサクソンと日本の関わりについては、拙著「防衛庁再生宣言」日本評論社第八章191-201頁を参照。)
そのような観点からすれば、対イラク戦をめぐってフランス、ドイツ及びロシアの三国や(仏独以外の国々も含めた)EU諸国の世論が(英米による)対イラク開戦に強硬に反対するのは不思議でも何でもありません。
これまでのコラムとの重複をいとわず、改めてこの「文明の対立」問題を整理しておきたいと思います。
1 序論
仏独露の三国は、かつていずれも覇権国になろうとしてアングロサクソンの妨害に会い、叩きのめされ、挫折した経験を持つ国です。ですからこの三国は、いずれもアングロサクソンに対し、心の底で怨念を抱いていて当然でしょう。対イラク戦をめぐってこの三国がスクラムを組んで米国を批判しているのは、この潜在的な怨念が噴出したためと見ることもできます。仏独はEUの中心国であり、両国の結束とEUの強化・拡大によって覇権国への見果てぬ夢がついに現実性を帯びてきた、ということも仏独の姿勢の背後にあるのかもしれません。
最初にアングロサクソンに挑戦した国家(Nation State)はフランスです。
(16世紀末に無敵艦隊アルマダによる英国遠征を試みたスペインはNation State 以前の中世的カトリック帝国であり、議論の対象からは除かれます。)
しかしそのフランスは、
・アウグスブルグ同盟戦争(1688-1697。北米大陸では「ウィリアム王戦争」と呼称)、
・スペイン継承戦争(1701-1714。北米大陸では「アン女王戦争」と呼称。ただし1701-1713)、
・オーストリア継承戦争(1740-1748。北米大陸では「ジョージ王戦争」と呼称。ただし1744-1748)、
・七年戦争(1756-1763。北米大陸では「フレンチ・インディアン戦争」と呼称。ただし1754-1763。米国ではこの四つの戦争を「フレンチ・インディアン諸戦争(Wars)」と総称することがある。)
と四分の三世紀にもわたって断続的に続いた死闘の末、英国に完膚無きまでに叩きのめされてしまいます。
この結果、あわれフランスは北米大陸とインド亜大陸の仏領を殆どすべて英国にもぎとられ、事実上欧州大陸の中に封じ込められてしまうのです。
(ウィリアム王戦争:http://www.usahistory.com/wars/william.htm(2月18日アクセス)、アン女王戦争:http://www.usahistory.com/wars/spansucc.htm(2月18日アクセス)、ジョージ王戦争:http://www.globalsecurity.org/military/ops/king_george.htm(2月17日アクセス)、フレンチ・インディアン戦争:http://www.globalsecurity.org/military/ops/french_indian.htm(2月17日アクセス)、等)
(ちなみに、この長期にわたった戦争で、フランスはもとより英国も財政的に疲弊し、余儀なく北米植民地に北米駐留英国軍の駐留経費負担を求めた英国は北米植民地の怒りを招いてその独立(1776年)を招いてしまいますし、その独立戦争の際、北米植民地を軍事支援して英国に対する意趣返しをしたフランスは、米独立革命の余波を被ってフランス革命(1789年)という大事変を引き起こします。)
そして、「それ以来、フランスは何とか失地を取り戻そうとしてきた――ナポレオン、ド・ゴールと。今・・ではイギリスに代わって米国が喧嘩の相手になった。」(Helmut Sonnenfeldt)(ロサンゼルスタイムズ前掲より)という次第です。
もう少し精確に言うとこういうことです。
フランス革命・ナポレオン戦争(フランスが対オーストリア宣戦布告した1792??ナポレオンがワーテルローで敗れた1815年)でナショナリズムの旗を掲げて欧州全体を征服し、その上で英国と雌雄を決しようとしたフランスは、英国(と英国によってそそのかされたロシア)によって叩きつぶされ、それ以降はいわばアングロサクソン(最初は英国、その後は米国)の被保護者的存在に落ちぶれてしまいます。
その次にあらわれたアングロサクソンへの挑戦者はロシアです。
ロシア文明は欧州文明の外縁に位置する非欧州文明ですが、ロシアは欧州の一員として認めてもらいたいという強迫観念(obsession)にとらわれており、欧州の思潮や文物の懸命な導入を図るとともに、ロシア圏の欧州等への拡大の機会をうかがってきました。
英国はフランスをその気にさせてクリミア戦争(1854-1856)をともに戦い、フランス直輸入(ただし、「民主主義」抜き)のナショナリズムの旗を掲げるロシアをたたき、ロシアによるオスマン帝国の欧州領蚕食を阻止するとともに、アジア大陸南部ではGreat Gameなる冷戦を、インド亜大陸を拠点としてアフガニスタン等を舞台にロシアと「戦」い、その南進を牽制し、食い止めます。
やがて英国は新興国日本とロシアを仮想敵国とした日英同盟(1902-1921)を締結し、形式的には中立を保ちつつ日本に戦略的支援を与え、代理英露戦争と言ってもよい日露戦争(1904-1905)において日本を勝利させ、ロシアの東アジア・太平洋進出の野望をうち砕きます。
そしてその頃からロシアはドイツの膨張圧力に晒されることになり、しばらくの間、アングロサクソンのドイツ封じ込めの尖兵の役割を演じさせられることになります。
日露戦争での敗北が遠因となってロシア革命(1917年)が起こると、対独戦争(第一次世界大戦)からのロシアの離脱は許さないとして、英国は日本、フランス、米国とともにシベリアに出兵する(日本の出兵は1918-1922年)等、干渉戦争を行います。
この干渉戦争をはねのけたロシア(ソ連)は、ドイツ直輸入の共産主義の旗を掲げ、モンゴル、中国や日本に触手を伸ばして日露戦争以前の野望の実現を図ろうとし、それに半ば成功します。
そして第二次世界大戦後にはロシア(ソ連)は欧州大陸の東半分を「併呑」し、かつての大英帝国に匹敵するような大帝国を築き上げます。
アングロサクソンは、「保護国」化したドイツ(西独)と日本を最前線としてロシア(ソ連)と冷戦をたたかい、1991年、ついにロシアがほぼすべての旧植民地を失う形でソ連が崩壊し、アングロサクソンはロシアとの闘争に決着をつけるのです。
遅きに失した感じで登場したのが、30年戦争(1618-1648年)以来のフランスの執拗な妨害をはねのけ、1871年に至ってようやく国家統一をなしとげたドイツです。
最終的にドイツはアングロサクソンと1914-1945年にわたる新30年戦争を、前半戦はフランス由来の(、ただし「民主主義」は水でうすめた)ナショナリズムの旗をかかげ、後半戦は自前のナチズム(ファシズム)の旗を掲げて戦いますが、結局壊滅的敗北を喫し、ドイツは再び歴史の表舞台から退場させられてしまいます。
(日本はこの前半戦はアングロサクソンの同盟者としてともにドイツと戦うのですが、後半戦ではドイツにくみしてアングロサクソンと戦うという世界史上の逸脱現象(abberation)が起こります。アングロサクソンの本来的同盟者たる日本をこのような逸脱行動に追い込み、皮肉にも大英帝国に「過早な」瓦解をもたらしてしまったのは、当時の未熟児的新覇権国米国です。この点も近々コラムに書きますが、さしあたり拙著「防衛庁再生宣言」日本評論社第九章209-217頁を参照。)
ナショナリズム、共産主義、ファシズムと続く民主主義独裁の考え方のイデオローグがジュネーブ(スイス)人ジャン・ジャック・ルソーであることは、既にコラム#71で述べたところですが、民主主義独裁が世界で最初にフランスという国家で成立したのには必然性がありました。
というのはフランスにおいて、
第一にイギリスに引き続き、世界で二番目の国家(Nation State)が英仏百年戦争の結果生まれていたこと、
しかもそれが、
第二にイギリスとは全く異なり、カトリック的王権神授観念に立脚した国家であったこと、
そして、
第三に17世紀にフランス人神父ジョセフ・デュ・トロンブレー(Joseph du Tremblay)によって、覇権の確立という国家(State)目標をイデオロギー(カトリシズム)と国民(Nation)を手段として追求するという考え方が世界で初めて生み出され、その考え方がフランス王のルイ13世や14世によって採用され、遂行された、
という歴史があったからです。
(その2(2 本論)に続く)