太田述正コラム#5420(2012.4.14)
<イスラム教の成立(その1)>(2012.7.30公開)
1 始めに
 「黙示録の秘密」シリーズで、キリスト教の本質について考えてきましたが、そうなると、キリスト教の「姉妹宗教」であるところの、イスラム教についても、その本質を考えてみたくなります。
 時あたかも、トム・ホランド(Tom Holland)が、イスラム教の成立を扱ったところの、『剣の影の下で:全球的帝国を目指しての戦いと古代世界の終焉(In the Shadow of the Sword: The Battle for Global Empire and the End of the Ancient World)』を上梓し、英国で大いに話題になっているので、この本のさわりを、書評類をもとに紹介した上で、私のコメントを付すことにしました。
A:http://www.guardian.co.uk/books/2012/apr/05/shadow-sword-islam-tom-holland-review
(4月6日アクセス。書評(以下同じ))
B:http://www.ft.com/intl/cms/s/2/35832c30-7e52-11e1-b20a-00144feab49a.html#axzz1rJIUVtoF
(4月7日アクセス)
C:http://www.telegraph.co.uk/culture/books/historybookreviews/9174113/In-the-Shadow-of-the-Sword-by-Tom-Holland-review.html
(4月12日アクセス。以下同じ)
D:http://www.telegraph.co.uk/culture/books/bookreviews/9188586/In-the-Shadow-of-the-Sword-by-Tom-Holland-review.html
E:http://www.thebookseller.com/profile/tom-holland.html
F:http://www.spectator.co.uk/books/7746568/prophetic-times.thtml
G:http://christianityandhistoryforum.blogspot.jp/2012/04/tom-holland-on-islam-christianity-and.html
H:http://www.scotsman.com/the-scotsman/books/interview-tom-holland-author-of-in-the-shadow-of-the-sword-1-2221063
(インタビューをまとめた記事)
 なお、ホランドは、1968年生まれの英国の小説家、歴史家であり、幼少時から歴史に強い関心があったけれど、ケンブリッジ大学では英語を専攻して優秀な成績を収め、
http://en.wikipedia.org/wiki/Tom_Holland_(author)
吸血鬼小説作家として社会生活を始めます。(H)
 「・・・ホランドは、二つの大成功した古代史の本の著者だ。
 成功したというのは、創造的な意味と商業的な意味の双方においてだ。
 『ルビコン(Rubicon)』では、彼はローマ帝国の終焉を追った。
 『ペルシャの火(Persian Fire)』(コラム#867)では、彼は、5世紀におけるペルシャ人とギリシャ人の間の紛争、すなわち、東と西の間の紛争に焦点をあてた。
 <今回の>『剣の影』は、これらよりも野心的で、かつより重要な本だ・・・」(A)
2 イスラム教の成立
 (1)序
 「・・・コーラン研究、初期イスラム史、ローマ、ペルシャ、そしてタルムードの(Talmudic)諸研究<がそれぞれなされてきている。>
 しかし、全体を見渡すと、このような様々な学問領域の専門家達は他で並行して何が行われているのかにほとんど気付くことがない。・・・」(H)
 「・・・<この本は、>紀元400年から800年まで<のイスラム教成立史を総合的なアプローチでもって扱っている。>・・・」(E)
 「・・・紀元224年に建国されたペルシャ帝国<(注1)>が絶頂期を迎えた時から750年のアッバース朝カリフ(Abbasid caliphate)<(注2)>の勃興までの道程を踏み固めつつ、ホランドのこの新しい本は、紀元後の最初の1,000年間の世界が、一つの神、三つの宗教、そして数えきれないほどの代々の皇帝達によって支配される過程を追う。
 (注1)「サーサーン朝([Sassanid Empire]・・・22[4]年~651年)は・・・首都はクテシフォン[(Ctesiphon)](現在のイラク)。・・・《パルティア王国》[(Parthian Empire)を継ぎ、]アケメネス朝ペルシャ[(Arsacid Empire)]の復興を目標とした。その支配領域は・・・、おおよそ・・・アルメニアから・・・アフガニスタン周辺まで及んだ。《ゾロアスター教を正式に「国教」と定め、儀礼や教義を統一させた。その時、異端とされた資料は全て破棄された。他宗教も公式に禁止された。<こ>の国教化に重要な役割を果たしたカルティールはマニ教を異端とし、教祖マニを処刑した。》」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%B3%E6%9C%9D
http://en.wikipedia.org/wiki/Sassanid_Empire ([]内)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BE%E3%83%AD%E3%82%A2%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E6%95%99 (《》内)
 (注2)「イスラム帝国第2の世襲王朝(750年~1258年)<であり、>・・・ムハンマドの叔父アッバースの子孫をカリフとし、最盛期にはその支配は西はイベリア半島から東は中央アジアまで及んだ。・・・首都<は>バグダード<。>・・・1258年にモンゴル帝国によって滅ぼされてしまう。しかし、カリフ位はマムルーク朝に保護され、1518年にオスマン帝国スルタンのセリム1世によって廃位されるまで存続した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%83%E3%83%90%E3%83%BC%E3%82%B9%E6%9C%9D
 イスラム教の例外主義の第一諸原則の大部分に挑戦するこの本の中で、ホランドは、7、8、9世紀の間にオクソス(Oxus)河とピレネー山脈の間に蟠踞したところの、巨大なアラブ帝国を、西ローマ帝国の混沌のうちの崩壊以降の地中海と中東に君臨した超国家群のうちの「最後の、クライマックスの、そして最も永続的な」ものとして描く。
 イスラム教は、予言者<ムハンマド>が神の啓示を洞窟で610年に受けた時に、或いは、彼が622年頃にメッカからメディナに逃れた時に、完全に形成された形で生まれたわけではない、とホランドは主張する。
 実際、この宗教は、現在の形・・厳格な一神教で、その宗祖のムハンマドの記憶と教えにこの上もなく忠実で、その聖なる文書の言葉によって治められ、熱狂的な王侯達と強力な聖職者達によって監督される・・をとるまで2世紀近くかかったのだ。
 この2世紀の間、イスラム教と諸カリフは、出現しつつあった他の諸宗派と時の諸帝国・・ペルシャのゾロアスター教(Zoroastrianism)<(注3)>、東ローマのキリスト教、そして、領域的帝国は持っていなかったけれど、その教えの力(potency)によってパレスティナ、アラビアその他において持続していたユダヤ教・・<の、それぞれ>の成功にとって必須であったところのもの、のほとんど全てを取り込んだ。・・・
 (注3)「イラン高原北東部に生まれたザラスシュトラ<({紀元前13世紀?~紀元前7世紀?})が>・・・開祖<の宗教。>・・・ゾロアスター教は、善と悪の二元論を特徴とするが、善の勝利と優位が確定されている宗教である。一般に「世界最古の一神教」と言われることもある・・・研究者によっては歴代<ペルシャ>王朝の支配下でゾロアスター教は「国教」であったと見なす場合もあるが、見解は統一されていない。・・・アケメネス朝ペルシアは、異民族の宗教に対して寛容であった。したがって、仮にゾロアスター教がアケメネス朝ペルシア帝国の「国教」であったとしても「支配者の宗教」という意味に限定されると考えられる。・・・<ちなみに、>・・・元来は寺院や偶像崇拝を認めなかったが、・・・<ギリシャ系の>セレウコス朝<の時、>・・・他文明の影響で受容するように変化した。・・・<また、>パルティアの宗教はゾロアスター教でなく「ミスラ教」に変質した可能性がある。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BE%E3%83%AD%E3%82%A2%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E6%95%99 上掲
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B6%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%88%E3%83%A9 ({}内)
 「ゾロアスター教の神学では、この世界の歴史は、善神スプンタ・マンユと悪神アンラ・マンユらとの戦い・・・であるとされる。 そして、世界の終末の日に最後の審判を下し、善なるものと悪しきものを再び分離するのが アフラ・マズダーの役目である。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%82%BA%E3%83%80%E3%83%BC
 ユスティニアヌス(Justinian<483~565年。皇帝527~565年>)<(コラム#545、1405、2384、4450、4822)>のキリスト教ローマ帝国が<キリスト教>の神を崇拝しない者に重税を課したように、アラブ人達は、(ジズヤ(jizya)<(注5)>として知られているところの)人頭税を、自分達の支配下に入ったユダヤ人とキリスト教徒に課した。・・・」(D)
 (注5)「アッバース<朝の下で>・・・ジズヤはもっぱら非ムスリムに対するものとなった・・・非ムスリムはジズヤを支払うことにより、制限つきではあるもののズィンミー(庇護民)として一定の生命・財産・宗教的自由の保証が得られた。ジズヤは・・・ユダヤ教徒やキリスト教徒、いわゆる啓典の民に対するもので、それ以外の非ムスリムには改宗を迫ることが原則だったが、イスラーム世界の拡大によって実質的にはすべての非ムスリムに対するものとなった。・・・ジズヤを課せられるのはズィンミー身分に属する健康な自由人の成人男性である」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%82%BA%E3%83%A4
 「・・・ホランドにとっては、全ての一神教・・ゾロアスター教、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教・・は、相互に影響を及ぼしあっており、それは、それぞれが経典を持った宗教へと分離を始めた時においてもそうだったのだ。・・・」(H)
(続く)