太田述正コラム#5428(2012.4.18)
<加藤高明と外務省の原罪(その2)>(2012.8.3公開)
土屋司令官の政治的感覚の素晴らしさをもう少々ご紹介しましょう。
「土屋司令官はシンガポール暴動の連絡を受けると、「暴動ノ原因等不明ナルモ若シ香港ノ印度兵ニシテ之ト気脈ヲ通スルガ如キコトアラバ、同地ニハ之ヲ鎮圧スヘキ英兵ナキヲ以テ」、麾下の明石艦長に「基艦ハイマヨリ直ニ香港ニ急航シテ万一ニ備ヘ状況に応ジ臨機ノ処置ヲナスベシ」との訓電を発した。・・・<そして、>しばらくの間常に軍艦一隻を香港に在伯させることとしたが、この処置は・・・「衷心感謝」された。さらに・・・土屋司令官は艦艇を・・・<東南アジア>各地に派遣した。・・・特にペナン<(注5)>に入港した音羽は「大ニ音羽来訪ヲ徳トシ、果ハ其陸戦隊ノ上陸、市内行進迄モ要望シテ之ヲ実行セシムル」状況であった。・・・
(注5)「ペナン島 (・・・Penang・・・) は、マレー半島の西方、マラッカ海峡に位置する島である。・・・クアラルンプールからは北西に約350キロメートル離れている。・・・1786年、・・・ペナン島<を>イギリス<が獲得し>、自由貿易港となった。ペナンは、シンガポール、マラッカとともに<英>「海峡植民地」の一角となり、関税を課していたバタヴィアなどを敬遠する交易船が頻繁に寄航するようになった。しかし、1832年に海峡植民地の拠点がペナンからシンガポールに移ると、海峡貿易の中心地の地位をシンガポールに譲ることになった。1914年、第一次世界大戦に際してはドイツ巡洋艦エムデンが通商破壊活動の一環として奇襲し、大被害を与えた<(後出)>。第二次世界大戦に際しては1941年に日本軍に・・・占領され、以後はインド洋における日本海軍の重要な作戦拠点となった。またドイツ潜水艦(Uボート)も通商破壊活動の基地とした。・・・2008年、マラッカ海峡の歴史的都市群としてマラッカとともに<ペナン島の>ジョージタウンが世界遺産に登録された。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%8A%E3%83%B3%E5%B3%B6
<なお、シンガポールでの>イギリス人義勇兵は「概シテ規律ヲ欠キ往々付与セラレタル権力ヲ乱用シテ不法ノ行為ヲ敢テスルモノ鮮ナカラス」の状況であったが、日本軍は「整備統一外国軍隊中卓然、独リ無線電信連絡ヲ保チ武威非常ニ(脱字)ツツアリ」という状況であった。日本軍の出動はイギリスにとり”Utmost Value”(最も価値ある)なもので、2月25日の陸戦隊の解散式典では特に総督が国王の名前をもって観閲を行い、その挨拶で「貴国艦隊ハ太平洋ニ於テ『最効果アリタル艦隊ナリ』と、チャーチル(Winston Churchil)海相の議会演説を引用して日本海軍を称えたことでも窺われるであろう。藤井領事は事件後の総督の土屋司令官や領事への態度は「嘗テ見サル慇懃ヲ極メ」たものに変わったと報告している。」(68~69)
→シンガポール暴動がらみの帝国海軍の適切かつ目覚ましい対応だけで、英国の日本に対するお覚えがどれほどめでたくなったのか、分かりますね。(太田)
3 外務省のダメぶり
(1)当初の英国政府の好意的姿勢
「<英>グレイ<(Grey)>外相<(コラム#4272、4496、4540、4542、5036)>・・・は開戦時に日本の南進を警戒し、日本海軍の出動範囲を中国沿岸に限ると限定したが、その後のドイツ東洋艦隊(巡洋艦2隻、装甲巡洋艦3隻基幹)や巡洋艦エムデンの跋扈に、開戦一週間後には北米沿岸へ、三週間後には地中海へと戦域制限を遥かに越える艦艇の派遣要請をしなければならなかった弱み<が>生じた。日本海軍はヨーロッパへの派遣には<その時には>応じなかったが、これらの要請の殆ど総てに応じ、第三艦隊を増強してシンガポール周辺および中国沿岸の警戒に当てたほか、第一南遣支隊・・・、第二南遣支隊・・・を南太平洋に、遣米支隊・・・を南北アメリカ沿岸に、特別南遣支隊・・・をインド洋に送り、・・・イギリス海軍を支援した。このような援助を受けたためか対華二十一ヶ条問題で日英が対立している3月28日に、チャーチル海相は「この大戦の歴史が書かれる時、日本海軍のイギリスに対する惜しみない心からの支援について感銘深い一章が記されるであろう」との書簡を日本海軍に送付していた。・・・
そして対華二十一ヶ条の要求が世界に対日不信感を生起させている時に、シンガポール暴動が発生した<わけだ。>・・・このほか日本は武器援助でも<英国に>多大の貢献をしていた。弾薬の備蓄が底を突き崩壊寸前のロシア軍を支えていたのは日本からの武器援助でもあった。・・・イギリスに<も>1914年<から15年にかけて、小銃や騎兵銃や実弾を>引き渡す契約を締結し・・・た。・・・
グレイ外相は<、日英が「対立」していた対華二十一ヶ条問題について、>アメリカやカナダへの移民が困難となった「日本ガ商工業上其将来益発展スベキハ自然の数ニテ、特ニ満州ニ於ケル日本ノ地位伸長」は以前から「同情スル所ニシテ<外相の>加藤<高明>男<爵>ニモ毎々御話シタル通」である。「英国ノ利害ニ関係アルハ鉄道ノミ」であるが、この問題などは「小事ニ過ズ(Minor point of the question)」と日本の要求に理解を表明した。・・・また、アメリカの日支両国に対する共同勧告の提案にも、「同盟国トシテ既ニ日本政府ニ対シ所見開陳」の手段を取っていると拒否した。・・・<更に、>5月7日には駐英中国公使・・・に「日本国ノ該最後提案ハ大ナル譲歩ト認ムル所ニ付キ支那ハ宜シク速ニ之ヲ受諾シ以テ時局ノ妥結ヲ計ルコトトスルコト得策トスル」と勧告し、さらに同日ジョルダン(Sir John Jordan)公使に「日本国最後ノ提案ハ頗ル寛大」であるので、妥協を図るのが中国の利益になると「非公式ニ強硬ナル勧告(Strong Advice)」を与えるよう訓電・・・するなど、その対応は受動的かつ親日的なものであった。」(69~71)
→第一次世界大戦における、英国への帝国海軍のおおむね全面的な協力や露英への小火器の軍事援助・・当然帝国陸軍の協力があったろう・・が、英国政府の日本政府による対支政策への好意的姿勢を引き出した、ということです。
それにしても、ロシアが日英の事実上の同盟国であったという世にも異常な時期において、なお、ドイツという共通の敵を得て日英が歴とした同盟関係を深める機会が与えられたことは、何と幸いなことであったか、と私は思うのです。ところが・・。(太田)
(続く)
加藤高明と外務省の原罪(その2)
- 公開日: