太田述正コラム#5432(2012.4.20)
<イスラム教の成立(その4)>(2012.8.5公開)
 (4)イスラムの成立
 「・・・ゾロアスター教から、<アラブ人達は、>例えば、一日5回礼拝するという慣例を輸入した。
 ちなみに、コーランでは、3回としか示していない。
 <エルサレムの>岩のドームの足跡は、創世の初めにおける神のものであるとの当初の観念を変更して、11世紀に、「メッカからエルサレムに運ばれたとされる」ムハンマドのものであったはずだ、と「まさにその目的のために」決定した、とホランドは言う。
 後に大いに悪口を言われることになるところの、ウマイヤ朝(Mu’awiya)のような初期のカリフは、キリストの磔刑の場所で祈ったり、地震で崩壊した後のエデッサ(Edessa)<(注11)>の司教聖座堂を復旧したり、公衆浴場の奇妙な公的碑文を十字架で飾り立てたりすることに何の異議も唱えなかった。・・・」(F)
 (注11)現在のトルコのトルコ領ウルファ。639年にイスラム勢力の手に落ち、この町でキリスト教徒に対するジズヤが生まれたとされる。第一回十字軍の際、1098年に、ここに最初の十字軍国家であるエデッサ伯領が成立したが、同伯領は、1159年に最初に失われた十字軍国家ともなった。
http://books.google.co.jp/books?id=54ge-4Z67t8C&pg=PA183&lpg=PA183&dq=Edessa%EF%BC%9BCathedral&source=bl&ots=pECy90nBGn&sig=1sIcaf6aWn3RZkmsjxeJrjtlmXI&hl=ja&sa=X&ei=s7WOT8WQIcfbmAWCsciTDA&sqi=2&ved=0CEoQ6AEwBQ#v=onepage&q=Edessa%EF%BC%9BCathedral&f=false (PP193) 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%87%E3%83%83%E3%82%B5%E4%BC%AF%E5%9B%BD
 ホランドは、キリスト教とイスラム教は、どちらも強力な皇帝達であるところの、それぞれ、コンスタンティヌス(Constantine。306~37年)<(コラム#413、1026、1761、2766、3475、3483、4009、5396)及びアブド・アルマリク(Abd al-Malik。685~705年)<(注12)>によって形成された(ないしは再形成された)ことを示唆する。
 (注12)「ウマイヤ朝の第5代カリフ・・・。ウマイヤ朝中興の英主と評価される。・・・<現在のパキスタン東南部の>シンド・<中央アジアの>ソグディアナ地方と<北アフリカの>モロッコ西部まで版図を拡大した。・・・アラビア語を公用語にしたことは功績のひとつといわれている。しかし、キリスト教徒を嫌って激しく弾圧した。・・・<また、>エルサレムに「岩のドーム」を建設している。これは、ユダヤ教徒によって神聖視されていた巨岩を覆って建てられた建物である。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%96%E3%83%89%E3%82%A5%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%82%AF
 彼のキリスト教やユダヤ教に対する姿勢は、ホランドの言っていることと矛盾?(太田)
 実際、彼の説明によれば、この二人の皇帝は、ほとんどこの二つの宗教の真の教祖とも言えるのであって、イエスとムハンマドを「剣の影」に入れてしまったというのだ。
 少なくとも、キリスト教の場合は、これは皮肉なことであった、と言わざるをえない。
 というのも、最近の・・・何人かの新約聖書学者達は初期キリスト教の帝国に対する厳しい批判とされるものを掘り起こそうと努力してきたからだ。
 しかし、ホランドの論議には、説得力がある。
 古代末期(late antiquity)は古代世界(ancient world)の末端ではなかったのであって、それは、帝国と一神教が融合したところの、異常なほど創造的で形成的な時代であったというのだ。
 そして、良かれ悪しかれ、我々は、依然としてその帰結を生きている、というのだ。・・・」(G)
→インドのマウリヤ朝の第3代の王のアショーカ(在位:BC268?~232?)は、大帝国と(一神教ならぬ)仏教を融合させたとされていますが、彼が本格的に仏教(法=ダルマ)による政治を追求したのは、インド亜大陸をほぼ統一した以降の統治10年目頃からです。
 「彼の摩崖碑文などでダルマの内容として繰り返し伝えられるのは不殺生(人間に限らない)と正しい人間関係であり、父母に従順であること、礼儀正しくあること、バラモンやシャモンを尊敬し布施を怠らないこと、年長者を敬うこと、奴隷や貧民を正しく扱うこと、常に他者の立場を配慮すること<(人間主義!(太田))>などが上げられている。・・・<なお、>彼はダルマが全ての宗教の教義と矛盾せず、1つの宗教の教義でもないことを勅令として表明しており、バラモン教やジャイナ教、アージーヴィカ教は仏教と対等の位置づけを得ていた。・・・
 <ところが、>晩年、<彼は、>地位を追われ幽閉されたという伝説があり、また実際に治世末期の碑文などが発見されておらず、政治混乱が起こった事が推測される。原因については諸説あってはっきりしないが、宗教政策重視のために財政が悪化したという説や、軍事の軽視のために外敵の侵入に対応できなくなったなどの説が唱えられている。・・・アショーカの死後、マウリヤ朝は分裂し<た。>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%AB%E7%8E%8B
 つまり、仏教と前近代的大帝国とを両立させることは困難であることが分かります。
 これに対し、キリスト教やイスラム教と前近代的大帝国とは完全に両立したわけです。(太田)
 「・・・もしあなたが古代世界についての歴史家であり、ヒズブトタハリール(Hizb ut-Tahrir)<(注13)>のスポークスマンが全球的カリフの導入を要求するのを耳にしたならば、それはシーラカンスに出っくわしたようなものだ。
 (注13)解放党。1953年にエルサレムで、イスラム法学者・判事のタキウッディン・アルナブハニ(Taqiuddin al-Nabhani)によって創立され、全世界に100万人の会員を擁するとも言われる。イスラム教徒によって選出されるカリフ(caliph)をして、全イスラム教国が合邦したカリフ国(caliphate)をシャリアによって統治させることを目指す。なお、この一点を除き、民主主義は排する。
http://en.wikipedia.org/wiki/Hizb_ut-Tahrir
 アルナブハニ(1909~77年)は、現在のイスラエルの北部のハイファに生まれ、ベイルートで亡くなった。
http://en.wikipedia.org/wiki/Taqiuddin_al-Nabhani
 それは我々を恐ろしくわくわくさせる。
 なぜなら、ヒズブトタハリールは、イスラム教より前、[ローマ皇帝の]コンスタンティヌスまで遡るヴィジョンを口にしているからだ。
 コンスタンティヌスの考えは、単一の神によって統治された単一の帝国でなければならない、というものだった。・・・
 カリフ[、すなわちアラブ帝国]となったところのものは、間違いなく、ローマとペルシャの両帝国が代表していたものをブロックとして構築されたに相違ないのだ。
 それがこの本のテーマなのだ。
 すなわち、この融解炉の中から、どのように、高度に独創的で他と劃された<イスラム>文明が出現したのか、については、自分としては、古代の諸帝国と諸宗教にそのルーツがあると考える、というのが、そのテーマなのだ。・・・」(E)
3 終わりに
 ホランドは、イスラム教は、コンスタンティヌスのキリスト教、すなわちカトリック(と正教)のキリスト教・・祭政一致の一神教・・の焼き直しである、と指摘しているところ、私にはすとんと胸に落ちるものがあります。
 (いつの間にか、ゾロアスター教の話がこの箇所では消えてしまっていますが、この点は追及しないことにしましょう。)
 ところで、ユダヤ教も祭政一致の一神教ですが、キリスト教とイスラム教のユダヤ教との違いは、パウロにさかのぼるところの、超民族的キリスト教の樹立にあるわけです。
 そして、振り返ってみれば、「カエサルのものはカエサルに収め、神のものは神に納めよ。」(コラム#5414)というイエスの言こそ、ユダヤ教の神がユダヤ人の首長から切り離して超民族的な神へと仕立て上げられていく布石になるとともに、この超民族的な神を信奉する新宗教(キリスト教)と大帝国(この場合はローマ帝国)の首長(皇帝)との癒着関係樹立への道を開く布石にもなったのでした。
 仮に、ホランドの指摘のように、キリスト教とイスラム教が一卵性双生児であるとすれば、イスラム勢力が東の、単なる兄弟宗教たるゾロアスター教を信奉する勢力は粉砕できたのに、北方のキリスト教を信奉する勢力の粉砕には部分的にしか成功しなかった理由も何となく分かろうというものです。
 しかし、ここで一つの疑問が生じます。
 どうして、キリスト教の一卵性双生児であったはずのイスラム教が、須臾の間に、キリスト教・・この場合はカトリシズム・・よりも一層反動的な存在へと堕してしまったのか、という疑問です。
 これまで、何度かこの疑問に答えようとするコラムを書いたものの、なお、飽き足らない気持ちでいたところ、この疑問を解く鍵は以下にこそある、と考えるに至りました。
 「・・・<アッバース朝が建国された750年から間もない>75<6>年前後に、イブン・アル=ムカッファ(Ibn al-Muqaffa)<(注14)>というペルシャ人の政治顧問に対して<カリフによって>死刑が宣告された。
 (注14)~756年?。ゾロアスター教からイスラム教への改宗者。 アッバース朝第2代カリフのアル=マンスール(Abu Ja`far al-Mansur)によって死刑に処せられる。その理由としては、英語ウィキペディアは、ゾロアスター教の要素等の異端をイスラム教に導入しようとしたことであるとする。
http://en.wikipedia.org/wiki/Ibn_al-Muqaffa’
 聖職者達による法典編纂という発想は、ここにいう、ゾロアスター教の要素の一つだったのだろう。
 彼の四肢は胴体から切り離され、それらがオーブンの中でゆっくりと炙り焼きされるのを彼は見物させられ<た上で殺され>た。
 この処罰がムカッファに対してなされた理由の一つは、彼が涜神をなしたからだった。
 彼は、正義にかなった社会を促進するために、イスラムにおける神の法たるシャリアが、書かれた法典へと編纂されるべきことを、明らかに示唆したのだ。・・・
 ・・・コーラン<そのもの>は、わずか4つの罪・・窃盗、姦通、偽証、イスラムに対する戦争・・に対する処罰だけを認めていた<ことを想起せよ>。・・・」
http://www.nytimes.com/2012/04/17/books/heaven-on-earth-by-sadakat-kadri.html?hpw=&pagewanted=print
(4月17日アクセス)
 この処刑からも分かるように、ウマイヤ朝のアブド・アルマリクによって形成された原初イスラム教においては、アッバース朝の冒頭まで、首長(当時はカリフ)に世俗法に係る立法権・法解釈権が留保されていたからこそ、この首長の権限を奪うところの、シャリアの法典化の提案は死に値したというのに、その後、(イベリア半島に拠った後ウマイヤ朝を除く全イスラム世界の帝国たる)アッバース朝が長く続いた間に、このようなシャリアの法典化がなされることとなり、首長の立法権・法解釈権が奪われた(注15)結果、祭政一致そのものには変わりがなくても、宗教優位の祭政一致となり、世俗分野における革新が著しく阻害されることとなったと考えられるのです。
 (注15)「ウマイヤ朝末期、ウマイヤ家によるイスラム教団の私物化は<アラー>・・・の意思に反していると<し>、ムハンマドの一族の出身者こそがイスラム・・・の指導者でなければならないと主張するシーア派の・・・運動が広がった。こ<れ>はペルシア人などの被征服諸民族により起こされた宗教的外衣を纏った政治運動<だった。>
 <シーア派等>反体制のアラブ人とシーア派の・・・ペルシア人からなる反ウマイヤ朝軍は、749年9月にイラク中部都市クーファに入城し、アブー=アル=アッバースを初代カリフとする新王朝の成立を宣言した。翌750年、アッバース軍がザーブ河畔の戦いでウマイヤ朝軍を倒し、アッバース朝が建国された。
 <こうして、>シーア派の力を借りてカリフの座についた・・・アッバースは、安定政権を樹立するにはアラブ人の多数派を取り込まなければならないと考え、シーア派を裏切りスン<ニ>派に転向した。この裏切りはシーア派に強い反発を潜在させ・・・た。
 ・・・アッバース家が権力基盤を固めるには、イラクで大きな勢力を持つ非アラブムスリムのペルシア人の支持を取り付ける事が必要<とな>ったため、・・・非アラブムスリムに課せられていたジズヤ(人頭税)とアラブ人の特権であった年金の支給を廃止し、<イスラム教徒の間の>差別が撤廃された。
 <そして、>アッバース朝はウラマー(宗教指導者)を裁判官に任用するなどしてイスラム教の教理に基づく統治を実現し、秩序の確立を図った。つまり征服王朝のアラブ帝国が、イスラム帝国に姿を変えたのであるが、そうした変革をアッバース革命という。アッバース革命は、イスラム教、シャリ<ア>(イスラ<ム>法)、アラビア語により<イスラム教を信奉する諸>民族が<平等に>統合される新たな大空間を生み出すこととなった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%83%E3%83%90%E3%83%BC%E3%82%B9%E6%9C%9D
 「<イスラム法(シャリア)>・・・の内容は宗教的規定にとどまらず民法、刑法、訴訟法、行政法、支配者論、国家論、国際法・・・、戦争法にまでおよぶ幅広いものである。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%A2
 9世紀以降、伝統的イスラム諸社会において、イスラム法を解釈し(interpret)明らかにする(refine)権限は、イスラム学者(ウレーマ=ulema)の手に委ねられた。
http://en.wikipedia.org/wiki/Sharia
 それに対し、キリスト教(カトリシズム)世界では、早くも5世紀後半から、西ローマ帝国崩壊に伴って多数の首長が競い合うこととなり、世俗権力の一元化がなされず、祭政一致の前提が失われたまま推移したため、世俗法に係る首長の権限が奪われるといった、世俗分野において革新が決定的に阻害されるような事態は生じえなかった、と考えられるのです。
(完)