太田述正コラム#5456(2012.5.2)
<ナチスドイツの最期(その3)>(2012.8.17公開)
ウ 独裁制
「・・・三番目は、ヒットラーその人への信仰(faith)だ。・・・」(A)
「<しかし、その信仰度と言えば、肝心のナチス最高幹部達の間では、>SSをつくったヒムラーは、自分自身が助かるため、スウェーデンを通じて<連合国と>交渉を試みようと姿を消してしまったし、シュペーア(Speer)<(コラム#3267、3829、5162)>は、ドイツの全工業能力を破壊せよとのヒットラーによる「皇帝ネロ的」命令を取り消すためにルール地方に赴いた、という程度のものだった。・・・}(D)
「・・・<とはいえ、>カーショウは、「持ちこたえよ」との大災厄的意思決定の責任は主としてヒットラーのところにある、ということについて説得力がある<説明を行っている>。
というのも、この独裁者は、単に、英雄的敗北の方がいかなる形態の降伏よりも好ましいとの観念に個人的に憑りつかれていただけでなく、彼はまた、挑戦されることのない大層な権力システムを自分自身の手に集中させていたので、彼は、文字通り全ドイツを自分自身と共に深淵へと引きずり込むことができたのだ。
1945年4月30日のヒットラーの自殺だけがドイツの降伏への道を啓いたことは瞠目すべきことだ。・・・」(C)
「・・・カーショウは、あらゆるものがヒットラー次第であったと主張する。
彼が形成した政府の独特の構造は、あらゆる者を彼に依存せしめた結果、彼が戦争を継続する決意を固めている以上は、我に返った(ふわふわした)瞬間におけるヒムラーやシュペーアを含めてさえ、<ヒットラーに>代替できるような権力基盤は存在しなかった。
第三帝国が続いたのは、ヒットラーに忠誠を誓う「将来のない頑固者達」が、自らの運命に身を委ねていたドイツ人達の大部分を、先導し、苛め、震え上がらせことができたからなのだ。・・・」(E)
「・・・長期間にわたって、ヒットラーは、V2弾道ミサイル<(注8)>とアルデンヌ攻勢(Ardennes Offensive)<(注9)>、次いで、資本主義のアングロサクソンとその赤露(communist Russian)との同盟(allies)という「不自然な」提携(coalition)が壊れることへの非現実的な期待、といった途方もない期待によって自らを支えてきた。
(注8)「世界初の・・・弾道ミサイル・・・<(ただし液体燃料>であり、宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッベルスが命名した報復兵器第2号 (Vergeltungswaffe 2) を指す。・・・V2の射程距離は、約1,000kgの弾頭でおよそ300 kmであった・・・1942年10月3日<に>・・・打上げ・・・<に>成功<し、>・・・9月8日<に初めて攻撃(ロンドン、パリ)に成功した。>・・・なお、報復兵器のうち、V1 は空軍所管だったのに対し、V2は陸軍が所管した。これは、V1 が飛行爆弾で「無人の戦闘機」とみなされたのに対して、V2はロケットで「巨大で高性能な砲弾」と考えられたことによる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/V2%E3%83%AD%E3%82%B1%E3%83%83%E3%83%88
(注9)=バルジの戦い(Battle of the Bulge)<(コラム#572、4180、5094)>。1944年12月16日~1945年1月25日。「<ベルギーを舞台に決行された、>ドイツ軍の最後の大反撃」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
しかし、1945年1月には、<そんな>ヒットラー<も>敗北が不可避であることを知り、敗北の暁には自殺することに決めるに至っていた。
<にもかかわらず、彼は最後まで戦うことを強いたのだ。>・・・」(H)
エ ナチズムへの忠誠
「・・・ナチズムへの忠誠も一つの役割を果たした。・・・」(C)
「・・・自殺的なナチス体制にドイツ人達を縛り付けたところの、ナショナリズムの重要性はどれだけ過大評価してもし足らない。・・・」(F)
「・・・いつもの単細胞的な答えは、人々は暴虐的な体制の不運な犠牲者であって、狂人たる専制君主によってその容赦なき党の信頼できる部下を通じて統治されている、というものだ。
しかし、そのような、すべてはナチスのせいだという答えは、カーショウは、ドイツの人々にとっては都合の良い逃げ口上ではあるけれど、ボロがすぐ出る、と指摘する。
なぜなら、そんな答えでは、政府と官僚機構が機能し続け、武器が驚くべき水準で生産され続け、全前線で陸軍が絶望的な中で戦い続けた理由を説明できないからだ。・・・」(D)
「・・・更に言えば、ナチスドイツでは、体制に対する忠誠心と民族的矜持は不可分なものとなっていた。
連合国は自分達の町を破壊した敵であって、彼らによるドイツ侵攻と占領に抵抗する必要性は自明だった。
<しかし、>西方では、連合国が実際進行して来て、捕虜にした兵士達や一般住民をおおむね人道的に扱った時点で、このことは自明ではなくなった。
そこでは、一般住民と若干の兵士達は、等しく、ナチス指導部から説諭と極めて現実味のある脅しでもって制止されていたにもかかわらず、侵攻者を歓迎したのだ。・・・」(G)
(続く)
ナチスドイツの最期(その3)
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