太田述正コラム#5458(2012.5.3)
<ナチスドイツの最期(その4)>(2012.8.18公開)
ク 赤露への恐怖
「・・・東方では、東プロイセンのネンメルスドルフ(Nemmersdorf)で行われた赤軍によって実行された暴虐的諸行為<(注10)>を防ごうという、かなり正当性のある目的のために、ドイツの兵士達は頑強に戦い、一般住民達は髪を振り乱して防御壁等を構築した。
(注10)1944年10月21日に当時の東プロイセンのネンメルスドルフで起こった、ソ連軍兵士達によるドイツ人一般住民や非戦闘員たる捕虜のフランス人やベルギー人の虐殺。この地域をドイツ軍が一時的に奪還した時に明るみに出た。ただし、ナチ宣伝省が誇張して伝えたとされる。
http://en.wikipedia.org/wiki/Nemmersdorf_massacre
・・・ゲッペルスの最も強力な武器は、ドイツは破壊され、婦人と少女は凌辱され、人々の大部分は奴隷にされてシベリアの労働収容所送りになる、という恐れを醸成することだった。
彼は、眉唾物だが感情に訴える主張でもって、戦い続ける以外に道はない、としたのだ。・・・」(B)
「・・・東方で赤軍と対峙していた者には激励の必要は全くなかった。
ロシアによる暴虐諸行為は、どれほど誇張されていたといえども、<ドイツ軍による>狂的な抵抗を保証したのだ。・・・」(E)
オ 第一次世界大戦末期の記憶
「・・・もう一つ重要なのは、1918年の記憶だ。・・・」(A)
「・・・<それには、>ロシア内戦や1918~19年のドイツ革命のような混沌への恐れがドイツ人の間にあった、といったものなど、種々の側面があった。
しかし、ヒットラーは、あの痛みを覚えさせる<1918年の>時を振り返る場合、それら<の側面>よりも、1918年の「背中への一突き」伝説・・ドイツ軍を敗北させたのは連合国ではなくユダヤ人とボルシェヴィキだった<という側面>・・を、もっと強く凝視した。・・・」(B)
「・・・<このような認識の下、>フェルディナント・シェルナー(Ferdinand Schorner)<(注11)>のような、ヒットラーのイデオロギーを信奉していた将軍達同様、ゴットハルト・ハインリツィ(Gotthard Heinrici)<(注12)>のような、非ナチの将軍達もまた、熱意をもって戦ったのだ。
(注11)1892~1973年。最後は陸軍元帥(今日に至るまでのドイツ最後の元帥)。第一次世界大戦の時に対イタリア戦で武勲をたてる。ナチスの武装親衛隊(Waffen SS)をドイツ軍並みの練度に引き上げることに貢献。
http://en.wikipedia.org/wiki/Ferdinand_Sch%C3%B6rner
「1945年に・・・書面による命令を保持せずに前線から離脱した兵士は全て裁判なしに即決で処刑されるとの命令を出した・・・
1945年4月5日に陸軍元帥に昇進、4月30日には自殺したヒトラーの遺言によって陸軍総司令官に任命された。
1945年5月8日、ズデーテンにある司令部でアメリカ軍からドイツ降伏の通知を受けた。翌9日、シェルナーは私服に着替えて民間人に変装し、配下の兵士を置き去りにして、シュトルヒ偵察機でオーストリアに逃亡したが、チロルでアメリカ軍に逮捕され、ソ連軍に引き渡された。シェルナーは戦犯として逮捕、訴追され労働刑50年を宣告されるが、後に12年に減刑され、最終的に1955年に西ドイツへの帰国を許された。・・・シェルナーは西ドイツでも逃亡兵を非合法に処刑した、また敗戦後に敵前逃亡したとして懲役刑を受け、1963年に釈放された。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%8A%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%8A%E3%83%BC
(注12)1886~1971年。最後は上級大将。防御戦においてドイツ軍の将官中最強とされ、ベルリン攻防戦の指揮を執った。ルター派の牧師の息子で妻はユダヤ人の血が半分混じった女性。ナチ党入党を拒み通す。ヒットラーが発したところの、撤退する際には焦土にせよとの命令に従わず、最終的に、ベルリン攻防戦で、ヒットラーの許可なく隷下部隊に後退を命じ、解任される。爾後、終戦まで、彼の生命を守るべく、部下の兵士達の一団が自発的に彼の護衛を続けた。
http://en.wikipedia.org/wiki/Gotthard_Heinrici
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B4%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%8F%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%84%E3%82%A3 (参考)
ナチ党に対して、若干の人々が不同意の声をあげたし、ぶつぶつ言う人に至ってはたくさんいたけれど、一般住民やドイツ軍のどの部門からも大量の造反者が出ることは決してなかった。
ドイツの人々は、1918年の11月に起こったような<ドイツの>崩壊を回避しようと一体的に(collectively)決意を固めていたように見えるのだが、一体それはどうしてなのだろうか。・・・」(E)
「・・・だから、一つの目論みにおいては、少なくとも、ヒットラーは成功を収めたわけだ。
すなわち、1918年におけるような諸造反と休戦要求が再現されることがないようにしよう、との・・。
兵士達の対部分は、最後の最後まで戦い続けた。
そのうちの少数は忠誠心が厚く狂信的であったところ、彼らの多くは、ゲームが終わったことを十分承知していたものの、厳格なる軍事規律の下にあったため、何をすることもできなかったのだ。
<もとより、>他の動機もあった。
戦う男達の連帯意識を過小評価してはいけない、ということだ。・・・」(G)
カ ヒットラー暗殺計画の失敗
「・・・ヒットラーの命を狙った1944年7月20日の事件<(注13)から>10か月後<に>ドイツは降伏<した。>・・・」(C)
(注13)「1938年5月、・・・ヒトラーはズデーテン地方の割譲を要求した。・・・ルートヴィヒ・ベック{(Ludwig August Theodor Beck)}陸軍参謀総長{(自殺に追い込まれる)}が、ヒトラーの政策に反対して辞任。ヨーロッパに戦争勃発の危機が迫る。このような情勢下、反ヒトラーのクーデター<ないし>暗殺が計画された。ベック前陸軍参謀総長、その後任のフランツ・ハルダー《(Franz Halder)》陸軍参謀総長《(生き残る)》、ヴィルヘルム・カナリス『(Wilhelm Franz Canaris)』国防軍情報部長『(処刑)』、同情報次長ハンス・オスター大佐『(処刑)』、[テューリンゲンに起源を持つ由緒ある貴族の家系<の>]ベルリン地区防衛司令官エルヴィン・フォン・ヴィッツレーベン[Job-Wilhelm Georg Erwin von Witzleben]大将[(処刑)]、装甲部隊司令官エーリッヒ・ヘプナー中将(後上級大将。処刑)”、ベルリン警視総監ヴォルフ=ハインリヒ・フォン・ヘルドルフ※(Wolf Heinrich Graf(伯爵)von Helldorf。処刑)※、刑事警察本部長アルトゥール・ネーベ☆(Arthur Nebe。処刑)☆、元参事官のハンス・ベルント・ギゼヴィウス*、国立銀行総裁ヒャルマル・シャハト<(生き残る。コラム#4994)>、上級裁判所判事のハンス・フォン・ドホナーニ#(Hans von Dohnanyi。処刑)#、外務省書記局長エーリッヒ・コルトー*、元ライプツィヒ市長カール・ゲルデラー$(Carl Friedrich Goerdeler。処刑)$、牧師・神学者ディートリッヒ・ボンヘッファー★(Dietrich Bonhoeffer。処刑)★ら多数の軍人、政治家、官僚、知識人、文化人らが関与していた。彼らのグループは、後にゲシュタポによって「黒いオーケストラ」の名で呼ばれるようになる。 彼らは・・・<結局、ヒトラーをクーデターではなく暗殺で排除することにした>。しかし、・・・ミュンヘン会談でイギリス・フランス両国が譲歩。ズデーテン地方のドイツへの割譲を認めて戦争が回避され、<この時は暗殺>は実行には至らなかった。・・・
大戦勃発後、ドイツ軍は占領地から数百万人の捕虜や奴隷的労働者をドイツ国内へ連れて来たが、カナリス国防軍情報部長<は>ヒトラーに「彼らが叛乱を起こした際の対策を取る必要が有る」と進言。ヒトラーは・・・国内予備軍司令官フリードリヒ・フロム上級大将に対策案作成を命令した。フロムは部下の同軍参謀長フリードリヒ・オルブリヒト大将にそれを一任し、オルブリヒトは1942年10月13日、反乱鎮圧計画とその隠語名ヴァルキューレを立案した。国内で反乱が発生した際、国防軍・武装親衛隊を含め、全ての武装集団を・・・国内予備軍指揮下に置き、戒厳令を布告し政府の全官庁、党機関、交通・通信手段、放送局、軍法会議の設置まで全てを掌握する、という計画であった。発動権限は国内予備軍参謀長にあり、同軍参謀長オルブリヒト大将ら陰謀派は、ヒトラー暗殺後「ヴァルキューレ」を発動、それをクーデターに利用して国内を一気に掌握する計画を立てた。・・・
ドイツの敗色が濃くなった1944年6月、ヴィッツレーベン元帥、ベック退役上級大将、ヘプナー退役上級大将、トレスコウ少将*の他に、国内予備軍一般軍務局局長フリードリヒ・オルブリヒト大将%(Friedrich Olbricht。処刑)%、陸軍通信部隊司令官エーリッヒ・フェルギーベル大将&(Erich Fellgiebel。処刑)&、ベルリン防衛軍司令官パウル・フォン・ハーゼ中将’(Karl Paul Immanuel von Hase。処刑)’、参謀本部編成部長ヘルムート・シュティーフ少将!(Hellmuth Stieff。処刑)!」らの「黒いオーケストラ」グループは暗殺計画を実行に移すこととし、・・・「旧ヴュルテンベルク王国の貴族の出<の>・・・国内予備軍参謀長クラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐」が暗殺実行者に選ばれた。「彼の上官、国内予備軍司令官フリードリヒ・フロム〈(Friedrich Fromm)〉上級大将は、グループに加わってなかったが、彼らの企てを半ば黙認していた。」
シュタウフェンベルクが「東プロイセンのラステンブルクの総統大本営「ヴォルフスシャンツェ(狼の穴)」」での会議中に爆弾を爆破させてこの計画を決行した結果、空軍参謀総長、総統副官2人、速記者1人が死亡したが、ヒットラー「は打撲と火傷、鼓膜を損傷したが奇跡的に軽症で生き残った。・・・
<その後、暗殺計画関与者>約200人が次々に処刑された<(確認できなかったが、*の人々も処刑されたと考えられる)>。・・・裁判と処刑は・・・ナチス・ドイツの敗戦直前まで続いた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%BC%E6%9A%97%E6%AE%BA%E8%A8%88%E7%94%BB
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%83%E3%83%84%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%99%E3%83%B3 ([]内)
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%A0%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%95 (!!内)
「・・・<この事件は、>「背中への一突き」理論の新しいナチ版を生み出した。
ただし、今回は貴族達と参謀本部の参謀達が裏切り者なのであって、それが示唆するところは、スターリングラード(Stalingrad)以来のドイツ軍の一連の敗北の責任は総統にはない、というわけだ。
シュタウフェンベルク(Stauffenberg)の爆弾は絶望的な時にあって唐突に体制への支持を生み出した。
(この時期の手紙類を見ると、ナチによるところの、ドイツの人々の幼児帰り症候群によって、総統を暗殺する計画があたかも親殺しのように見えたのではないか、という疑問が生じる。)・・・」(B)
「<第三帝国という>機械が壊れる理想的な瞬間があったとすれば、それは、1944年7月の爆弾計画の後だった。
<ところが、>どうなったかと言えば、軍隊の中からは造反のささやきすら聞こえてこなかったし、一般住民からの暗殺計画下手人たちへの支持も見られなかった。
それどころか、神にヒットラーの生存を感謝する善意のメッセージやカネが山のように寄せられたのだ。・・・
<ハメルンの>笛吹き男が深淵へと子供達を連れて行ったように、<ドイツ人達>をヒットラーの後について行かせたものは、一体何だったのだろうか・・・。・・・」(D)
(続く)
ナチスドイツの最期(その4)>
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