太田述正コラム#5460(2012.5.4)
<ナチスドイツの最期(その5)>(2012.8.19公開)
「・・・ヒットラーを倒せたであろう者は陸軍だけだった。
しかし、その陸軍は、一突き<(暗殺計画の実行)>を1944年7月20日に行ったけれど、この爆殺計画の失敗によって、<関係者が>協力して<ヒットラーに対する>レジスタンスを行う機会は永久に失われた。
更に言えば、爾後パージの対象となることなく生き残った将校達は、お墨付きの<ヒットラー>忠誠者達ばかりだった。
<そして、>階級が下に行けば行くほど、ヒムラーによって押し付けられたより強いナチ化を歓迎する若き獅子達が蟠踞していた。・・・」(E)
「・・・<とはいえ、>カーショウは、何十万人も脱走兵がいただろうと推計している。
<そして、>そのうち何千人もが逮捕され処刑された。
とりわけ、戦争の最終段階においては、大急ぎで行われた軍法会議の後の略式の処刑が普通のことになった。
しかし、脱走は<あくまでも>個人的な次元のものだ。
それに対し、降伏は<組織的に行うものであり、事情が>異なる。
だからこそ、東部戦線で降伏した将官達はその家族まで逮捕された。
いずれにせよ、カーショウが言うように、「疲れ果て、士気が低下した部隊は、<もはや>叛乱の基盤たりえなかった」のだ。・・・」(G)
キ 米英側の責任
カーショウは、軍事戦役に触れるのをあえて避けているが、1944年の秋にヒットラーの死命を制することに失敗した、という連合国のひどい失策には言及している。
モントゴメリー(Montgomery)は、アーネム(Arnhem)で腰砕けになってしまうこととなる、不適切な判断の下で行われたところの、ライン河めがけての攻勢<(注14)>でもって、ドイツ陸軍に最後の勝利を献呈したのだ。
(注14)マーケット・ガーデン作戦(Operation Market Garden。1944年9月17日~25日)は、「<連合国軍が、>ドイツ国内へ進撃する上で大きな障害となるオランダ国内の複数の河川を越えるために、空挺部隊を使用して同時に多くの橋を奪取する作戦であった。またこれは、同時にオランダの港湾施設を使用可能状態にして、補給線が伸びきっていた連合軍の兵站問題を解決する上で重要な作戦でもあった。
作戦は途中のナイメーヘンのライン橋の占領までは成功したが、作戦の最終到達点であったアーネム(アルンヘム)の・・・橋は、英軍の第1空挺師団が壊滅するなど大損害を受けたために奪取できなかった。このため連合軍はオランダ国内で勢力範囲を広げることには成功したものの、・・・当初の目的は果たせず、作戦は失敗に終わった。・・・
西部戦線は<この>作戦の失敗により完全に停滞し、その冬のラインの守り作戦(バルジの戦い)<(前出)>、東部戦線の春の目覚め作戦を経て、45年3月にライン上流部でルーデンドルフ橋の確保に成功するまで<、連合軍は、>ライン川を越えることができなかった。・・・
アメリカの歴史家はモントゴメリーの用兵を評価しない傾向にあり、一方、イギリスの歴史家はアメリカ軍の貢献を評価しない傾向にある。・・・
[<なお、>アーネム・・・は、オランダの・・・ライン川に沿った美しい・・・町<であり、そ>の南側を流れるライン川にかかる鉄橋<が、>・・・マーケット・ガーデン作戦・・・を描いた映画のタイトルにもなった『遠すぎた橋』である。]なお、<この>アーネムの橋は、1944年に連合軍の爆撃によって破壊されるが、戦争終結後速やかに架け直される。しかもそれは、[イギリス第1空挺師団第1<空挺>旅団第2大隊長ジョン・フロスト中佐]に敬意を払い、当時のままの姿で復旧され、ジョン・フロスト橋と改名され現在に至っている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%82%B1%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%83%87%E3%83%B3%E4%BD%9C%E6%88%A6
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%8D%E3%83%A0 ([]内)
ドワイト・D・アイゼンハワーは、前線全般における一斉前進に固執することで英米の軍事力を分散してしまい、兵站を維持することを不可能にしてしまい、フランスにおいてドイツ軍を潰走させたというのに、その勢いを持続させることに失敗してしまった。
ロシア軍もまた、1944年6月と7月の大勝利の後、<ドイツ軍に>決定的な一撃を加える機会を逸してしまった。
その結果、ドイツの人々は、助かるかもしれないという希望を抱くことができる、息つぎの空間的・時間的余裕を与えられた。
こうして、ハインリッヒ・ヒムラー、ヨーゼフ・ゲッペルス、アルベルト・シュペーア、そしてナチ党官房長のマルティン・ボルマン(Martin Bormann)<(注15)>は、<ドイツ軍による連合軍に対する>最後の一押しのためにドイツ社会を動員することができた。
(注15)マルティン・ルートヴィヒ・ボルマン(Martin Ludwig Bormann。1900~45年)。「4月30日、ヒトラーは遺言でボルマンを遺言執行人、そして「ドイツ国党大臣(Reichsparteiminister)」に任命して自殺した。・・・戦後長い間、行方不明とされてきたが、・・・ヒトラーの自殺後・・・深夜に・・・総統地下壕<を>脱出<した>際に青酸で服毒自殺していた事が近年証明された。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%9C%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%83%B3
目覚ましい努力によって、彼らは産業と官僚機構から梳ることで陸軍に更なる100万人の男性を提供した。
彼らの多くは民兵(Volkssturm militia)の老兵となり、或いはそんな役にさえ立たないひよっ子だったが、それでも彼らは、戦車を破壊できる携帯対戦車擲弾発射器(Panzerfaust)を発射することができた。
シュペーアの軍需相としてのひらめき的即興の結果、軍事産業は1944年12月に最高の軍需品の生産高を叩き出し、アルデンヌ攻勢<(前出)>に間に合わせることができた。
しかし、この一点突破・・そうなったことにはアイゼンハワーの無能もあずかっていた・・は短時間のものだったが、ドイツ人達に、再び楽観論の発作と、「奇跡の諸兵器」や連合国内部の軋轢が自分達を助けてく入れる時期まで持ちこたえる意欲、とを与えた。・・・」(E)
「・・・仮に連合国が、第三帝国<軍>を1944年末に破砕していたとすれば、その衝撃だけで<第三帝国の>崩壊がもたらされていたことだろう。
そうならなかったために、ドイツ人達は、ゆっくり熱せられている水槽の中の蛙のような状態となり、跳ね出さなければならない時が来たことに気付く前に茹で上がってしまう羽目になったのだ。」(E)
「・・・<ちなみに、>終戦後、ドイツの将官達は、連合国の無条件降伏への固執が彼らをして戦わざるをえなくした、との主張を試みた。
<しかし、>カーショウは、こんな言い訳は成り立たないことを示す。・・・」(B)
(続く)
ナチスドイツの最期(その5)
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