太田述正コラム#5478(2012.5.13)
<モサデグ・チャーチル・米国(続)>(2012.8.28公開)
1 始めに
少し前に(コラム#5286で)とりあげた、クリストファー・ド=ベレーグ(Christopher de Bellaigue)の ‘Patriot of Persia: Muhammad Mossadegh and a Tragic Anglo-American Coup’ の書評が新たに出た
http://online.wsj.com/article/SB10001424052702303513404577353640718058390.html?mod=WSJ_Opinion_LEFTTopOpinion (以下の「」内)
(5月12日アクセス)ところ、前回の書評が言及していなかった話が書いてあり、前回の私のコメントの一部の手直しかたがた、再度、この本をとりあげることにしました。
なお、今回の書評の筆者は、「イラン系米国人たるジャーナリストであり、ヘンリー・ジャクソン協会(Henry Jackson Society)の非常勤准研究フェロー(nonresident associate research fellow)」です。
2 モサデグ自身にも問題があった
「・・・ベレーグが我々に示すモサデグは、自分の国を経済的自殺寸前まで追いやり、自らの政治的失脚をもたらした、横柄で、啓蒙されてはいた、しかし変人で、独善的なデマゴーグだ。・・・
・・・彼のエクセントリックな魅力にもかかわらず、モサデグは、ベレーグの口吻によれば、「本物の政治家ならやり遂げるところの、利害と理想との間の均衡を見出すことに、ついに成功しなかった」のだ。・・・
当時のイランは、石油に関し、掘削し、マーケティングを行い、配給する手段を持っていなかったというのに、彼が完全な国有化を行ったのは純粋なる愚行だった。
<彼による>この決定は経済的には破滅的だった。
<そもそも、当時の世界の>石油市場はイラン抜きでも完全にやって行けた。
しかし、モサデグにとっては、経済などというものは些末なことだったのだ。
彼は、「究極的なご褒美であるところの、石油と名誉」に憑りつかれていたのだ。
このようなモサデグの政治的近視眼の結果が彼の失脚だったのだ。
彼は、およそそれ以上のものがイランに提示されるようなことがありえない好条件<が提示されたというのに、それ>を受諾することもしなければ、ソ連とつるんでいた恐ろしいツデー(Tudeh)党<(注)>のシンパを含む、彼の急進的な支援者達を善導(temper)しようともしなかった。
(注)Tudeh Party of Iran=Party of the Masses of Iran=イラン共産党。1941年創設。
http://en.wikipedia.org/wiki/Tudeh_Party_of_Iran
モサデグの頑迷さの下で、シャーによる統治の初期を特徴づけていたところの、脆弱な国民的コンセンサスは、最終的に粉々になった。
反モサデグのぶつぶついう声は、諸バザールや諸神学校中に広まって行った。
モサデグは、これ<らの声>に対し、自分の「デマゴギー的な遺伝子」まかせにする形で対応した。
1952年に、彼は、国会を脅して自分に6か月間全権を与えさせ、次いでその一年延長を目論んだ。
「彼は、自分に疑いを差し挟む者は誰であろうと愛国心がないと非難した」とド・ベレーグ氏は記す。
「彼は、憲法がいつどのように適用されるかを判断する権限を彼自身だけに帰属させた(arrogated)」と。
米CIAと英MI6が彼を退任させるべく動いた時までには、世俗主義者のモサデグは、<欧米に>権益授与してもよいとしていた前任者を暗殺する際につるんだ可能性が高いところの、指導的イスラム主義者達の支持を失っていた。
他方、かつて一度はモサデグの運動をソ連の利害を推進するための道徳的刀として利用したツデー党は、今や、真に世俗的な反対党として、彼を失脚させようとしていた。
もう一つ最後に、モサデグが宮廷と妥協することをしぶったことが、シャーという後ろ盾を失わせることにつながってしまった。
モサデグは、元老院を解散し、諸選挙を取りやめ、布令(decree)によって統治した。・・・
<また、>ツデー党といちゃつくことで、モサデグは、英国との石油紛争に関して、米国に対して彼の側につくように圧力をかけようとした。
しかし、このブラフはひどい不発に終わった。
反権益授与者達の行進において、モサデグのナショナリスト勢力は何千人かの組織されていない抗議者達を集めることができただけだった。
<これに対し、>ある時のツデー党の集会には、規律あるマルクス主義者の同輩達が10万人も集まった。
CIAとMI6は、共同行動をとり、モサデグの排除を促進すべくカネを大量にばらまいた。
しかし、ド・ベレーグ氏が全般的に否定的な点であり、イラン社会の残りの人々も同様なのだが、<ある著者が>シャーの伝記の中で記しているように、「イランの中産階級である、バザールの商人達…と産業家達は、全員、とりわけツデー党の戦闘的で独断的な議論に辟易していたのだ。」
CIAのドルとプロパガンダが一定の効果をあげたことは確かだが、「ツデー党指導部の物腰における新たな傲慢さ(swagger)が、恐らくそれだけで中産階級の恐怖を醸成するのに十分であったと思われるのだ。」・・・」
3 終わりに
もちろんモサデグ自身にも少なからず問題はあったにせよ、私自身は、前回述べた私見を改める必要はないと考えています。
この本の著者であるベレーグも、この書評子も、どちらもイラン系ですが、前者は英国籍であり、後者は米国籍であって、米国籍の人間は米国に過剰適応しがちであることが、ベレーグとこの書評子の、モサデグや当時の米国政府に対する、それぞれによる評価の違いをもたらしている、と私は解しています。
なお、オバマは、ケニヤ人の実父とインドネシア人の養父の子であったところ、ある意味では彼も、ベレーグやこの書評子同様、米国への新参者であるわけですが、必ずしも米国に過剰適応してはいない、と私は見ています。
その証拠に、この書評子も言及していることですが、9.11同時多発テロからしばらくして出版された、米ジャーナリストのスティーヴン・キンザー(Stephen Kinzer)の ‘All the Shah’s Men’ ・・米国は、暴虐的なシャーの味方をしてモサデグの「民主主義的統治」を倒した、と主張した・・を、オバマは、大統領就任後にカイロで行った演説の際に引用していますし、イランの2009年の大統領選挙後の騒擾の際に、明確な姿勢を打ち出さなかった際にも、彼はその理由としてあげているからです。
このような書評子に書評を書かせたのは、ウォールストリートジャーナルが米国の右派(共和党支持)の新聞であるからこそであろう、ということです。
モサデグ・チャーチル・米国(続)
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