太田述正コラム#5480(2012.5.14)
<日進月歩の人間科学(続x26)>(2012.8.29公開)
1 始めに
 あのサンデル(Michael Sandel)(コラム#3622、3624、3626、4862、5167)大先生の新著、『カネで買えないもの–市場の道徳的限界(What Money Can’t Buy: The Moral Limits Of Markets)』からの抜粋がガーディアンに載っていました。
http://www.guardian.co.uk/books/2012/may/11/too-rich-to-queue
 大変興味深い内容であるのみならず、これまた、「松尾匡『商人道ノススメ』を読む」シリーズの内容とも密接に関わっていることから、さっそく、この抜粋の、更にさわりをご紹介することにしました。
2 市場の道徳的限界
 「・・・何年にもわたって、スイスは放射性核廃棄物を貯蔵する場所を見つけようとしてきた。
 この国は核エネルギーに大幅に依存しているというのに、核廃棄物の真ん中で住むことを欲するコミュニティはほとんどなかった。
 候補地として白羽の矢が立ったひとつの場所は、スイス中部の小さな山間の村であるヴォルフェンシーセン(Wolfenschiessen)だった。
 この問題についての住民投票の直前の1993年に、何人かのエコノミスト達は、仮にスイス議会が核廃棄物の貯蔵庫を自分達のコミュニティにつくることを決めたら、住民投票でこれを受け容れるかどうか調査した。
 この施設が近隣に新たにできることは望ましくないとの見解が一般的であったにもかかわらず、過半数をちょっと超えた(51%)住民が受け容れると答えた。
 明らかに、彼らの危険に対する心配を市民的義務感が凌駕したわけだ。
 次いで、このエコノミスト達は飴玉を持ち出した。
 仮に議会があなたのコミュニティの中に核廃棄物施設をつくることを求め、かつ毎年一人一人の住民に金銭を支払う形で補償を提供することにしたら、あなたはこれを好意的に受け止めますか、と。
 その結果だが、支持は上がるどころか下がったのだ。
 金銭的誘因は認容率を51%から25%へと半分に切って落とした、というわけだ。
 まだその後がある。この掛け金を増やしても助けにはならなかったという・・。
 このエコノミスト達が金銭提供額を増やしても、結果は変わらなかったのだ。
 住民達は、毎年一人当たり5,300ポンドという、中位月間所得をはるかに超える現金支払を提供された場合でさえも考え方を決して変えなかったのだ。
 同じことが、これほど劇的な反応の形はとらなかったものの、他の場所の諸コミュニティが放射性廃棄物貯蔵所に抵抗した場合にも見出された。
 さて、一体何がスイスの村で起こったのか。
 どうして、タダの方が支払付きの場合よりもたくさんの人々が核廃棄物を受け容れたのだろうか。
 多くの村人達にとって、核廃棄場所として認容したい気持ちは公共精神・・すなわち、この国は全体として核エネルギーに依存しているので、核廃棄物はどこかに貯蔵されなければならないとの認識・・の反映だったのだ。
 仮に自分達のコミュニティが最も安全な貯蔵場所であったとすれば、彼らはその重荷の一端を喜んで担う用意があったのだ。
 このような市民的コミットメントという背景の下では、現金を提供することは、あたかも賄賂のような、彼らの票を買おうとする営みであるかのように感じられた、というわけだ。
 実際、この金銭的提案を拒絶した者のうちの83%は、自分達が反対したのは賄賂で動かされるわけにはいかないからだ、と説明している。・・・
 金銭的誘因は、このような、核廃棄物がらみのことよりもっと軽易な物事においても公共的精神を追い出してしまうことが見出された。
 毎年、特定の「募金日」にイスラエルの高校の生徒達は、癌研究、障害児童支援、等々の価値ある目的で戸別訪問をして募金を募ることになっている。
 二人のエコノミストが、生徒達のやる気<の向上>に金銭的誘因がどれくらい効果があるかを見極める実験を行った。
 彼らは生徒達を三つの集団に分けた。
 一つの集団は<募金の>重要性に関する<、彼らに>やる気を持たせるのが目的の短いスピーチを聞かされた上で送り出された。
 第二と第三の集団は同じスピーチを聞かされたが、それぞれ集金額の1%と10%の金銭的報酬を提供された。
 この報酬は、慈善目的の寄付から控除されるのではなく、別の所から捻出された。
 どの集団の生徒が一番沢山カネを集めたとあなたは思うか?
 もしあなたが何も支払われなかった集団だと推測したとすれば、あなたは正しい。
 支払われなかった生徒達は1%の口銭を提供された者達よりも55%多く集金したのだ。
 10%を提供された者達は1%の集団よりもかなりよくやったが、全く支払われなかった生徒達には及ばなかった。
 (無償のボランティア達は、高い口銭の者達よりも9%多く集金したのだ。)・・・
 託児所(day care)はお馴染みの問題に直面していた。
 両親達が時々自分の子供を迎えに来るのが遅れたのだ。
 この問題を解決するため、託児所群は遅れて迎えに来た場合に罰金を科した。
 ところが、<この>罰金を導入したところ、遅れてやってくる両親達は、減るどころか、むしろ増えてしまったのだ。
 実際、遅れて迎えに来る事例が2倍近くに増えた。
 それまでは、遅れて来た両親達は罪の意識を感じた。
 彼らは先生達に迷惑をかけていた。
 しかし、今や、両親達は、遅く迎えに来ることを、<自分達がその代価を>支払うことを厭わぬところの役務を受けとることだと感じるようになった、というわけだ。
 彼らは、罰金をあたかも料金のように受け止めたのだ。
 先生に迷惑を強いるというよりは、彼ないし彼女<たる先生>に超過勤務をしてもらうための単なる支払いをしている<だけだ>、と。
 それだけではなかった。
 約12週間後にこの託児所群は<この>罰金を廃止したところ、新たな、上昇したところの、<両親が>遅れてやってくる水準がそのまま維持されたのだ。
 ひとたび、金銭的支払いによって、時間通りに現れなければという道徳的義務感が掘り崩されてしまうと、かつての責任感を呼び起こすのは困難であることが証明された、というわけだ。・・・」
3 終わりに
 この三つの事例の背景事情がもう少し分からないと、それぞれについてまともなコメントを行うのは困難なのですが、一番目の事例は、旧防衛庁で、在日米軍に係る基地行政も担当したことのある私としては、あのような実験結果がスイスでは本当に出たのだろうか、そんなにスイス人の公共的精神は高いのだろうか、と半信半疑です。
 二番目の事例の実験結果は、生徒達がアルバイトとして募金活動をしている、ということになると、募金で裨益する弱者の人々の生徒達への感謝の気持ち・・感謝を受け取る生徒の側にしてみれば金銭に換算できる・・が口銭のレベルが高くなればなるほど減少するであろうことが予想できる以上、当然でしょう。
 募金総額を最大にするためには口銭をどれくらいのレベルにしたらよいかが計算できそうですね。 
 三番目の事例は、託児所に児童を預ける料金がタダか私立の保育所にくらべて大幅に安い料金設定になっているとすれば、両親の道徳的義務感が高いというのは、大いにありそうなことだと思いますし、罰金の額や定額制か時間制かによって結果は異なってくるでしょうが、実験結果は何となく納得できますね。
 (いずれにせよ、「「市場の倫理」「統治の倫理」・・・を混同すると「救いがたい腐敗」が生じる」」(コラム#4923)かどうか、という話と今回の話は全く関係がない、と申し上げておきましょう。)