太田述正コラム#5488(2012.5.18)
<映画評論32:マンデラの名もなき看守(その2)>(2012.9.2公開)
3 原作と映画
 「・・・南アフリカ政府の刑務官であったジェイムズ・グレゴリー(James Gregory)の手記『さようなら、バファナ』(Goodbye Bafana)が、ビレ・アウグスト監督の元で映画化され<たところ、>・・・<マンデラがロベン刑務所に収監された>4年ぐらい後から、この映画の設定は始まる・・・」(C)のですが、私がこの映画を鑑賞した日である5月10日付という絶好のタイミングでガーディアンに掲載されたところの、この映画を追想した評論
http://www.guardian.co.uk/film/filmblog/2012/may/10/goodbye-bafana-nelson-mandela
は、この原作とこの映画のどちらも、ケチョンケチョンにやっつけています。
 「面白さ(Entertainment grade): 可(C) 歴史的信憑性(History grade): 不可(Fail)・・・ネルソン・マンデラ(デニス・ヘイスバート(Dennis Haysbert)→ミスキャスト)」だというのですからね。
 続けましょう。
 「グレゴリーは、<囚人の>マンデラと親しくなるにつれて、自分の人種的見解がぐらつき出したというのだが、マンデラの自伝’Long Walk to Freedom’に出てくるマンデラ自身のグレゴリーについての見方は異なる。
 ロベン島では、「私はグレゴリーをそれほどよくは知らなかったが彼は我々を知っていた。
 というのも、彼には、我々が出したり受け取ったりする手紙を検査する任務が与えられていたからだ。」・・・
 この二人が親しい友人関係にあったとする<、原作と映画の>テーマそのものについてもそうだが、登場する主要な出来事の全てについて、マンデラと一緒にいた囚人達とグレゴリーの同僚たる看守達からは異議が唱えられている。
 マンデラの友人達とマンデラの公認伝記作家であるアンソニー・サンプソン(Anthony Sampson)によれば、マンデラ自身が、サンプソンに、グレゴリーは、その記憶の幾ばくかにおいて「幻覚を見ていた」に違いないと語ったという。
 サンプソンは、グレゴリーにインタビューし、彼が「著者の特権(author’s licence)」を用いたことを認めた、と記している。
 この映画が封切られた2007年より前に、集められるだけの事実は集められており、そこへもってきてこのような<グレゴリー本人による>証言もあったというのに、この映画の制作者達がこの映画の制作を断念しなかったのは驚くべきことだ。・・・
 この映画自体、原作にはない、史実違反を犯している。
 例えば、グレゴリーが、マンデラを何度も「マディバ」と呼んでいる場面が出てくる。
 このコサ族の氏の名称でもって、敬意をこめて、支援者達はマンデラを呼んでいたものだが、実のところは、原作の中では、一貫してグレゴリーはマンデラのことを「ネルソン」と呼んでいるのだ。
 <また、>グレゴリーは、原作の中で、1960年代末に、ANCの自由憲章(Freedom Charter)を読むために定期的に公共図書館を訪れた、と主張している。
 <しかし、詳細に原作の史実の誤りを検証した>ニコル(Nicol)は、そうとは考えられない、と指摘している。
 この憲章は、当時禁書に指定されており、図書館にぶらりと入ってそれに一瞥をくれるわけにはいかなかったからだ。
 そこで、映画では、自分で読むために、グレゴリーが保安員をけむに巻いて禁書の憲章をくすねる場面を付け加えている。
 これでより説得力が生じたように見えるかもしれないが、既に眉唾物の原作に完全な捏造を付け加えたとて、それが真実になるというものではない。
 映画での最も怪しげな創作は、ポルスムア(Pollsmoor)監獄での一場面で、グレゴリーがマンデラに<南アの>白人少数派政府と交渉するよう懇請するところだ。
 「君はこれを止められる! 君は暴力を終わらせることができる! ルサカ(Lussaka)の君の人々に武力闘争を止めるように伝えてくれ!」
 <しかし、>このくだりは、グレゴリーの原作には出てこない。
 ポルスムアでの大部分の記述は、マンデラの医療上の措置に関する立ち入った個人的説明でもっぱら占められている。
 更に言えば、そんなことは、マンデラ自身が直接否定している。
 彼は、<自伝>の中で、特にグレゴリーについて、「彼が私の担当だったところの、ポルスムアと [もう一つの監獄であった]ヴィクター・ヴァースター(Victor Verster)における歳月において、彼と政治について議論をしたことは一度もない」と。
 にもかかわらず、<この映画>では、マンデラに、グレゴリーと政治的諸問題について繰り返しやり取りをさせている。
 「マンデラは、彼[グレゴリー]を訴えるよう促されたが、マンデラは、<南ア>監獄局(prisons department)がこの原著には責任を負えない旨を表明した(distanced itself from)ことで満足した。」
 この映画にとって幸いだったのは、本当のマンデラが、赦す人間だったことだ。・・・」
 ここで、マンデラが、自伝等でグレゴリーについてどう言っているか、もう少しご紹介しましょう。
 「・・・ポルスムアで、私はグレゴリーをもっと知るところとなり、彼が典型的な看守(warder)とはいい意味で対照的<な人物>であることが分かった。
 彼は、上品(polished)で言葉遣いが穏やかであり、<自分の当時の妻であった>ウィニーに礼儀正しく敬意をもって接した。」とマンデラは言っています。
 また、1990年にマンデラが釈放された日のことについては、「<最後の数年間、自分は、特別待遇で刑務所の中の一戸建てに住まわせてもらっていたところ、>准尉のジェームス・グレゴリーがその場にいたので、私は彼を温かく抱いた。
 ポルスムアからヴィクター・ヴァースターにかけて、彼と政治について議論をしたことは一度もない<(前出)>が、彼との絆はいわく言い難いものがあり、<刑務所を出所したことで、>彼のような慰撫的(soothig)な存在(presence)を失ったことを、<私は>残念に思うことになるだろう。」と記しています。
 更に、この映画のDVD版の「この映画制作裏話DVD(The Goodbye Bafana, The Making Of DVD)」は、ネルソン・マンデラのインタビューが収録されており、その中で、彼は以下のように語っています。
 「彼は、看守の中で最も知的に洗練されていたうちの一人だ。
 よく物事に通じていて(Well-informed)、誰とも礼儀正しく、とても観察力が鋭かった。
 私は、彼には非常に敬意を抱くに至っていた・・・」と。
 (以上、事実関係は下掲による。
http://en.wikipedia.org/wiki/Goodbye_Bafana )
(続く)