太田述正コラム#5490(2012.5.19)
<第一回十字軍(その2)>(2012.9.3公開)
(2)フランコパンの説
「・・・そんなことは嘘だ、とピーター・フランコパンは言う。
オックスフォード大の歴史学者の彼は、アレクシオス1世(Alexios I)<(注5)>を、フランスやイタリアの年代史家達がエアブラシで修整した姿から、(その本来の姿であるところの、)ずぶとく(bold)正当(rightful)な姿・・瀕死の状況にあった11世紀の欧州を震撼させることで、その地平を拡大させたという点で極めて重要な人物・・へと復旧しようという大志を抱いている。
(注5)アレクシオス1世コムネノス。1048~1118年。東ローマ帝国コムネノス王朝の初代皇帝(在位:1081年~1118年)。「ヴェネツィア共和国と同盟を結ぶことで海の守りを固め、・・・西方では・・・異民族の討伐にも乗り出して、帝国西部の領土奪回を果たし・・・また、東方の<セルジューク朝トルコの末裔、>ルーム・セルジューク朝に対しては、これを討つためにローマ教皇ウルバヌス2世に傭兵の提供を要請した。ところが、これは第1回十字軍という思いもよらない事態を招いてしま<う>。・・・内政面においては、・・・有力貴族と皇族との間に婚姻関係を結ぶことで関係を強化し(コムネノス朝以降、1453年に滅亡するまでコムネノス家・・・の血を引いた皇帝しかいない)、貴族の反乱を抑えた。また大土地所有貴族達に軍事力提供と引き換えに徴税権や土地を与えるプロノイア制を導入し、強力な私兵を抱える彼らの協力を得て帝国の軍事力を強化した。・・・<彼は、>帝国<の>約100年の間<の>衰退を食い止め、東地中海の強国の座を奪回・維持することに成功した」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%82%AA%E3%82%B91%E4%B8%96%E3%82%B3%E3%83%A0%E3%83%8D%E3%83%8E%E3%82%B9
「900年を超える期間、薄暗がりの中にいたが、アレクシオスは、第一次十字軍の歴史の中で舞台の中心を再び占めるべきなのだ」と。・・・」(B)
「・・・この皇帝は、帝国の辺境において敵の群によって、そして彼の家族内の競争相手達によって攻撃され、必死に軍事援助を求めていた。
これは、法王が、自分がキリスト教世界における指導者としての至上性を再確認する、という震撼的な大義の追求に熱心だったことと比肩しうる。・・・」(A)
「・・・第一次十字軍は、東方のプロジェクトであり、考案し鼓吹したのは法王ウルバヌス2世ではなく、ローマの没落を生き延びた、東ローマ、ないしはビザンツ帝国のアレクシオス1世だった。・・・
・・・<セルジューク朝>トルコのビザンツ帝国東部侵入と支配<の話>は、かなり誇張されていた。・・・
・・・<というのも、>キリスト教徒のビザンツ人とイスラム教徒のトルコ人と<の関係>は、驚くほど暖かく(cordial)、協調的(collaborative)でさえあったからだ。
ところが、これが1090年代初頭から劇的に変わった。
大災害的な出来事の連鎖が、ビザンツ帝国の膝を屈せしめたのだ。
バグダッドのスルタンの死によって勇気づけられ、地方のトルコ系の軍閥達の一群がビザンツ帝国の最も貴重で機微な(sensitive)諸領域の幾ばくかの支配権を奪取したのだ。
その結果、この帝国の首都それ自体が危うくなった。・・・
彼は、法王ウルバヌス2世を含む、西欧中のお歴々に助力の懇願を送った。
それには、カトリック教会と正教会をきっぱりと統合する、という申し出もついていた。
その結果起こったのは、聖なる地を守るための戦争というよりは、キリスト教にとっての重要性がないわけではないという程度の(at best, tangential)、ニケーア(Nicaea)<(注6)>やアンティオキア(Antich)<(注7)>といった諸都市を奪回することによって、ビザンツ帝国を防衛する戦争だった。
(注6)「小アジアのビチュニアのヘレニズム都市である・・・ニカイアは、現在のトルコの都市、イズニクにあたり、初期キリスト教の教義確立に大きな影響を与えた、二つの公会議(325年および785年)の開催地、東ローマ帝国の亡命政権ニカイア帝国の首都として知られる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%82%AB%E3%82%A4%E3%82%A2
場所は、下掲参照。↓
http://en.wikipedia.org/wiki/Nicaea
(注7)「セレウコス朝のセレウコス1世が父アンティオコスを記念して建設し、各地に存続したギリシア語の都市名。シリアのアンティオキアが有名。・・・ヘレニズム時代のセレウコス朝シリア王国の首都、ローマ時代のシリア属州の州都として栄えた。シルクロードの出発点として知られる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%AA%E3%82%AD%E3%82%A2
場所は、下掲参照。↓
http://en.wikipedia.org/wiki/Antioch
また、騎士達は、法王の指揮(command)の下にあったというよりは、アレクシオスによって支配(control)され、彼らは、コンスタンティノープルを通過する時に、キリスト教の貴重な聖遺物群に対して、厳粛な誓いを立てさせられた。
彼らは、征服した諸都市や諸領域の全てを引き渡すことも約束させられた。
しかし、アレクシオスは、最終的には<十字軍の騎士達に対する>支配権を失った。
十字軍従事者達は、要は、彼らが征服したもの・・終わり頃には、東地中海地域の多くを含んでいた・・を引き渡すことを拒絶したのだ。
こうした結果としての、彼らがそう呼んだところの、十字軍国家群は、爾後200年間続くことになる。
その結果、新たな物語が必要とされた。
アレクシオスとビザンツ帝国は、物語の核心から剥ぎ取られ、法王ウルバヌス2世は、・・第一次十字軍の最も初期の説明の中には彼への言及がほとんどないにもかかわらず・・舞台中央へと移されたのだ。・・・」(C)
(続く)
第一回十字軍(その2)
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