太田述正コラム#5494(2012.5.21)
<第一回十字軍(その4)>(2012.9.5公開)
 アレクシオスは、情け容赦なき安定の追求に彼の治世を費やした。
 時々は、1091年のレボウニオン(Lebounion)<(注13)>におけるように、アレクシオスは戦場で勝利をあげたことがある。
 (注13)Bataille de la colline de Lebounion(フランス語)。
http://fr.wikipedia.org/wiki/Bataille_de_la_colline_de_Lebounion
 アレクシオスは、ビザンツ軍とクマン(Cuman)軍を率いて戦った。
http://en.wikipedia.org/wiki/Pechenegs
 クマンは、クマン-キプチャク連合の西部にになっていたトルコ系遊牧民。モンゴルの侵攻を受け、ハンガリーやブルガリアに避難した。
http://en.wikipedia.org/wiki/Cuman_people
 その時、彼は、略奪目的で攻撃してきたペチェネグ(Pecheneg)<(注14)>の遊牧民達を、ほぼ殲滅したものだ。
 (注14)ペチェネグは、ペチェネグ語をしゃべった、トルコ系中央アジアステップ民。
http://en.wikipedia.org/wiki/Pechenegs 前掲
 しかし、よりしばしば、彼は、高度な外交・・種々のイスラム教徒たる軍閥達を配下に組み入れたり、彼らとの友好関係をカネで買ったりすること・・を好んだ。
 もっとも、こんな協商は、これらの指導者達が殺されたり死んだりするまでしか維持されなかったが・・。
 <そうこうしているうちに、>アレクシオスの敵達は、<次第に>宥めるには強力になり過ぎて行った。
 短期間で、彼の、小アジアの沿岸部や内陸部の支配は、ほとんど瓦解して行くことになる。
 <また、>彼の弟を含む、近しい仲間達がからんだクーデタの試みもあり、ビザンツ帝国は倒れそうになっていた。
 しかし、西側は、戦う男達と近代技術・・とりわけ、装甲付きの戦馬に騎乗した騎士・・を保有しており、そこに一種の救済の可能性が存した。
 コンスタンティノープルの利害を抜きにして、エルサレムを解放する、という約束でもって、アレクシオスは、彼自身をキリスト教圏のチャンピオンとして売りこんだ。
 彼は、ウルバヌスに手紙を書いたわけだが、ウルバヌスは、彼の競争相手の法王と広範な僧侶達の不協和音とに直面しており、遠き地における気高い大義が、サンピエトロの王座にぐらぐらしながら腰を下ろしていた自分を浮揚させる、ということをすばやく察知した。
 十字軍の魅力を増大させるため、この、事情通のこの法王は、参加に対する精神的報酬を強調しただけでなく、命を落とした者には天国での場所が事実上保証されるということも強調した。
 この十字軍の指導者達の一人として、すぐに、(ウィリアム征服王の息子達の一人である)ノルマンディー公ロベール(Robert)<(注15)>、トゥールーズ伯レイモン(Raymond of Toulouse)<(注16)>、ブイヨンのゴドフリー(Godfrey of Bouillon)<(注17)(コラム#4922、4924)>、そしてすぐに有名になることになる、その家族がノルマンのシチリア(Sicily)王国を支配していたところの、ボエモン(Bohemond)<(注18)>が加わった。
 (注15)Robert Curthose。1054~1134。ノルマンディー公:1087~1106年。ウィリアム征服王の長男。父親とは不和。父親の死後、二度にわたって、異なる弟とイギリス王位を争うも、いずれも失敗。
http://en.wikipedia.org/wiki/Robert_Curthose
 (注16)Raymond IV of Toulouse。1041/1042~1105年。極めて信心深く、スペインでムーア人と戦い、ウルバヌスの呼びかけにも最初に応じた。最も年長にして最も金持ちの十字軍従事者。また、アレクシオスに忠誠を誓わなかった唯一の十字軍指導者。
http://en.wikipedia.org/wiki/Raymond_IV,_Count_of_Toulouse
 (注17)1060?~1100年。陥落させたエルサレムの最初の支配者となるも国王の称号を拒否。ブイヨンについては、コラム#4922参照。。
http://en.wikipedia.org/wiki/Godfrey_of_Bouillon
http://en.wikipedia.org/wiki/Lord_of_Bouillon
 (注18)Bohemond I of Antioch。1058?~1111年。シチリア王ロジャー1世の甥。ターラント王(Prince of Taranto)、更にはアンティオキア王(Prince of Antioch)となる。十字軍の前、父親と共にビザンツ帝国に攻め入り(1080~1085)、次いで単独で同帝国に攻め入った(1082~1084年)が、最終的にアレクシオスに跳ね返されてしまう。彼は、この延長線上で、十字軍には機会主義的に加わった。
http://en.wikipedia.org/wiki/Bohemond_I_of_Antioch
 ターラントは、イタリア南部の町。
http://en.wikipedia.org/wiki/Taranto
 彼らと、彼らによって注意深く募集された軍勢は、信頼に足る戦う男達によって構成されており、彼らは、コンスタンティノープルで1096年と1097年に集合することになるのだ。・・・」(A)
(続く)