太田述正コラム#5537(2012.6.14)
<再び太平天国の乱について(その1)>(2012.9.29公開)
1 始めに
太平天国については、コラム#4902等で、これまで何度か取り上げてきているところですが、このたび、スティーヴン・R・プラット(Stephen R. Platt)の ‘Autumn in the Heavenly Kingdom: China, the West, and the Epic Story of the Taiping Civil War’ が上梓されたので、書評によってその概要をご紹介するとともに、私のコメントを付すことにしたいと思います。
A:http://www.washingtonpost.com/entertainment/books/autumn-in-the-heavenly-kingdom-china-the-west-and-the-epic-story-of-the-taiping-civil-war-by-stephen-r-platt/2012/04/27/gIQAQwJ3lT_print.html
(4月28日アクセス)
B:http://www.nytimes.com/2012/02/07/books/autumn-in-the-heavenly-kingdom-by-stephen-r-platt.html
(6月12日アクセス。以下同じ)
C:http://www.tnr.com/book/review/autumn-heavenly-kingdom-stephen-platt
D:http://www.thedailybeast.com/articles/2012/03/08/autumn-in-the-heavenly-kingdom-by-stephen-r-platt-review.print.html
E:http://www.sfgate.com/cgi-bin/article.cgi?f=/c/a/2012/02/24/RVOV1N2BLI.DTL&ao=all
なお、プラットは、米マサチューセッツ州立大学アムハースト校の歴史学科の准教授です。
http://www.umass.edu/history/people/faculty/platt.html
2 太平天国(Taiping Rebellion)
(1)序
「・・・太平天国の乱(Taiping Rebellion)は、<1851年1月
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E5%A4%A9%E5%9B%BD%E3%81%AE%E4%B9%B1
>に支那南部で勃発し、14年間続き、同時期の米内戦(南北戦争)の30倍の死者数を残した。・・・」(A)
「・・・この支那における内戦は1851年から1864年まで続いたが、米南北戦争と終わった時期がほぼ同じだ。
プラット氏は、それが「19世紀における最も破壊的な戦争であっただけでなく、史上最も血腥い内戦であった可能性が高い」と描写する。
約2,000万人の人々が、命を、その多くの者が異様な形で、失った。
首切り、皮剥ぎ、強姦、自殺、はらわたの取り出し、大量殺害、肉食、が、いやというほど行われた。・・・」(B)
「・・・マシュー・ホワイト<(コラム#5104、5106、5321、5325)>の “The Great Big Book of Horrible Things,” によれば、太平天国の乱は、世界総人口比での殺害数(1.7%)において史上8番目、年あたり死者数(130万人)において史上9番目という序列だ。
支那史においては、太平天国の乱は、殺害数の多さで3番目の出来事だ。
毛沢東の1949年から76年の間の血塗られた統治、及び明王朝の滅亡(1635~52年)、においては、もっと多くの人々が殺された。・・・」(E)
(2)洪秀全の回心
「・・・広東郊外の村で1814年に生まれた若き洪秀全(Hong Xiuquan)<(コラム#182、4898、4900、4902)>は、懸命に勉強し、10代になる前に儒教の諸古典を暗記した。
彼は、能力が十分あると見なされていたため、清王朝政府における職が保証されるところの、悪名高きむつかしい科挙に合格した暁にはお礼が期待できるとして、何名もの教師達が無償で彼を教えた。
ところが、彼は1827年に、3日間にわたるところの、最初の試験にすべってしまった。
もう一度科挙を受けたのは9年後だったが、彼はまたもやすべってしまった。
翌1837年にも、再びすべってしまった時、彼は<腰が抜けてしまい、>自分の村まで運んでもらって帰った。
そして、村に着くと、昏睡状態(trance)に陥り、40日間にわたって正体を失った中で様々な幻影を見る、という体験をした。
彼は、1843年に、4回目の受験にも失敗した。
それより2世紀前に、蒲松齢(Pu Songling)<(注1)>という男が同じような経験をしており、結局科挙に合格することなく40年間を<無為に>費やしてしまった。
(注1)1640~1715年。「40歳の時に・・・12巻・490余篇に及ぶ志怪小説『聊斎志異』<を>完成<し>た。聊斎志異の完成後も蒲松齢は同郷の王士禎の協力を得て文章の改易を続け、死の直前まで行っていた。聊斎志異は蒲松齡の死後刊行された。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%B2%E6%9D%BE%E9%BD%A2
彼は、フラストレーションのはけ口を、幻想小説群・・支那文学の偉大な作品の一つの見なされていて、しばしば、短編集として ‘Stories from a Chinese Studio’ という題名で英訳されている・・の執筆に求めた。
洪秀全もまた、彼なりのやり方で<科挙不合格のフラストレーションに>対応した。
たまたま、漢語に翻訳された、キリスト教宣教師の小冊子に出会った彼は、<3回目の>試験の後で彼が見た幻想群は、キリスト教の神からのメッセージである、と膝を叩いたのだ。
自分は、イエス・キリストの弟であって、聖霊(Holy Ghost)に代わる三位一体の一位であり、悪魔達を殺戮するよう命ぜられている、と告げられた、というのだ。
彼の考えによれば、悪魔達とは、科挙制度の基盤として機能していたところの、国家宗教たる儒教の擁護者であり、専制的にして民族的には支那にとって外国人・・万里の長城の北側の諸地域出身の満州族・・であった統治者達だったのだ。・・・」(C)
「・・・洪のキリスト教は、同時代に、ジョセフ・スミス(Joseph Smith)<(注2)>が創始したモルモン教(Church of Jesus Christ of Latter-day Saints)と、涜神度において優るとは言えないように見える。・・・」(A)
(注2)Joseph Smith, Jr。1805~44年。「天使より授かったとされる金版の書を元に、教典である『モルモン書』を著している。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%82%BB%E3%83%95%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%9F%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%8B%E3%82%A2
「・・・洪のこの妄想は、スティーヴン・R・プラットが、<読む者をして>わき目もふらせないところの、新著の中で描写するように、1851年から64年にかけて・・すなわち、エイブラハム・リンカーン(Abraham Lincoln)がまだスプリングフィールドで弁護士をやっていた頃に始まり、ロバート・E・リー(Robert E. Lee)<(注3)>がアッポマトックス(Appomattox)で降伏した年の一年弱前に終わった・・、少なくとも2,000万人もの人々を殺したところの、「歴史を通じて最も血腥い内戦である可能性」へと導くことになる。・・・
(注3)1807~70年。米陸士卒。「南北戦争直前には大佐・・・であったが、リンカーン大統領は、・・・<彼に>アメリカ合衆国陸軍(北軍)の司令官就任を要請した。しかし、リーは奴隷制には賛成ではなかったが、郷里のバージニアへの郷土愛などの理由により、1861年、・・・連邦軍を辞職しバージニアに帰郷し<、南軍に加わっ>た。・・・リーはほとんど常に北軍よりも劣勢の軍を指揮し、補給の欠乏に悩まされながらも、大胆な機動と敵の意表をつく攻撃によって、北軍を翻弄し続け第二次ブルランの戦い、フレデリックスバーグの戦い、チャンセラーズビルの戦いなどで勝利をあげ、北軍の<南部連合首都たる>リッチモンド侵攻の意図をくじき続けた。また、2度にわたって北部領域への侵攻作戦を実施するも、1862年のアンティータムの戦い、1863年のゲティスバーグの戦いでは北軍に敗れた。リーはゲティスバーグの戦いで敗北して南部に撤退した後、デービス大統領に辞任を申し出たが、・・・<同>大統領はこれを却下している。
1864年にユリシーズ・グラント中将が合衆国陸軍総司令官に就任し、北部の物量的優位を十分に活用する戦略をとると、リーは防戦一方とならざるを得ず、6月には首都リッチモンドの近郊まで後退を強いられた。1865年1月31日、南部議会によって南部陸軍総司令官に任命されたが、・・・4月3日リッチモンドが陥落。リーは軍を指揮してリッチモンドを脱出し・・・たが、バージニア州アポマトックスで北軍に捕捉され、4月9日に北軍のグラント総司令官に降伏した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BBE%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%83%BC
リーは、日本型政治経済体制的指揮官だった。だから、部下に人を得た時は強く、また守勢作戦には強かったが攻勢作戦には弱かった。このあたりのことを、上掲ウィキペディアを読んで感じ取っていただきたい。
著者は、太平天国に対して、とりわけ、天主(Heavenly King)<たる洪秀全>の従兄弟で、その埃っぽい諸門が支那以外の世界に向けて開かれているところの「近代工業大国たる支那というヴィジョン」を擁護し推進した、親欧米にして英語をしゃべるところの、洪仁カン<(王へんに干)(Hong Rengan)(注4)>という人物に関して完全に非共感的ではない。
(注4)1822~64年。「太平天国の前身である拝上帝会のメンバーではあったが、決起そのものには消極的であった。洪秀全が・・・蜂起を起こすと、合流を試みるが失敗し、香港<で>・・・1853年に洗礼を受けた。洪秀全が南京を攻め落として「天京」と改名すると、上海に赴くが天京に行くことができず、香港に引き返した。・・・語学や天文学などを学び、伝道・・・のアシスタントをする一方、医者や教師としても活動していたらしい。・・・1859年、宣教師の人脈を利用して<ようやく>天京に到着した<ところ、>・・・洪秀全は・・・洪仁カン<に>・・・内政<等>を掌握せしめた。
・・・彼は太平天国において西欧を模範とした制度改革を図った・・・。その内容は『資政新編』に詳しい。まず内政においては、鉄道・汽船といった交通網の整備や鉱山の開発といったインフラ整備、新聞の発行や福祉の充実、科挙改革を提言し、将来的にはアメリカを範にした政治システムの導入を主張した。外政的には、西欧を対等のものとして扱い、通商関係を築くことや宣教師活動の許可を主張している。更に『英傑帰真』の中では儒教や仏教、道教を批判して口語文の導入の必要性すら唱えられた。・・・この提言<は>明治維新の<実に>およそ8年前<になされたもの>である・・・。
しかし・・・洪仁カンのいうこと<は、>洪秀全・・・<以外>の首脳たちにとって・・・理解不能であった・・・。特に洪仁カンが清朝と外国列強が手を結んだ場合に太平天国が重大な危機に晒されると主張して先んじて列強との提携を唱えたことに対しては、それまでの最高幹部であり対外強硬論者であった李秀成とは激しく対立する原因となった。
太平天国崩壊後、李秀成とともに洪秀全の子の洪天貴福を伴って天京を脱出し・・・たが、間もなく捕らえられて・・・処刑された。
皮肉にも『資政新編』の内容は、太平天国を滅ぼした曽国藩や李鴻章による「洋務運動」として現実のものとなる。そして、『英傑帰真』の内容もまた辛亥革命後に行われる事になった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%AA%E4%BB%81%E3%82%AB%E3%83%B3
この<太平天国>体制は、欧米から、とりわけ、太平天国の教義の特異性を熱心に見極めようとし、太平天国による武力の行使のことは咎めなかったところの、プロテスタントの宣教諸団体から、若干の支援を受けた。
米テネシー州生まれの浸礼派派(バプテスト)のアイザッチャー・ロバーツ(Issachar Roberts)<(注5)>は、叛徒の本部(citadel)に招待を受けて赴いた人物だが、「仮に支那人の半分が絶滅したとしても、それにより残りの半分が正義(righteousness)を学ぶのであれば、彼らが今まで通りのやり方を続けて行くよりはまし」であると記している。・・・」(C)
(注5)Issachar Jacox Roberts。1802~71年。1847年に広東で2か月間洪にキリスト教を教えたが、何らかの誤解に基づき、洪が求めた洗礼を拒否した。1860年に太平天国の種との南京に赴き、洪仁カンの顧問となった。1862年に南京を去り、爾来、太平天国を激しく批判した。
http://en.wikipedia.org/wiki/Issachar_Jacox_Roberts
(続く)
再び太平天国の乱について(その1)
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