太田述正コラム#5541(2012.6.16)
<再び太平天国の乱について(その3)>(2012.10.1公開)
 (4)欧米諸国との関わり
  ア 英米の同時代史との交錯
 「・・・米国と支那は、英国の最大の市場であって当時のロンドンを中心とする全球化の歯車の枢要な歯だった。
 米国の綿はランカシャーの工場に運ばれ、支那向けの安い布を大量生産した。
 「これらのイギリスの工場群は、原綿の4分の3を米国の南部から得ており、最終生産物の半分近くが極東に行った」とプラットは記す。
 しかし、エイブラハム・リンカーン大統領が、南北戦争の間、南部の諸港を封鎖した時、英国人達は、「イギリスの国内製造経済が崩壊する」のではないかと本当に虞を覚えた。
 綿の価格が急上昇したため、英国の布は支那の安い種々のものともはや競争することができなくなった。
 ランカシャーの工場群は休止し、失業率は跳ね上がり、革命の空気がみなぎった。
 そこで、英国政府は何をやったか。
 第一に、米国内の紛争に介入するという観念をもてあそんだ。
 次いで、それは止め、その代わりに、色黒でハンサムなフレデリック・タウンゼント・ウォード(Frederick Townsend Ward)<(注10)>を手先として、米国で調達した火器でもって支那に介入した。
 (注10)1831~62年。「1831年、・・・マサチューセッツ州で生まれた。太平天国の乱による中国国内の混乱が続く中、1860年、上海商人の要請を受けて外国人船員による洋槍隊を組織した。これが常勝軍の起源となる。この際の軍隊は解散したが、その後中国人を中心として軍を再編成し、戦いを継続させた。しかし、1862年に慈渓の戦いで戦死した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AC%E3%83%87%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%82%BF%E3%82%A6%E3%83%B3%E3%82%BC%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%89
 「1862年、太平天国軍は上海に対して連続的に攻撃を行ったため、西洋人の<上海>住民<達の要請を受け、>・・・イギリス海軍・フランス海軍は清軍に協力して太平天国軍への軍事行動を開始した。当時の太平天国軍の拠点の1つは杭州湾の南の寧波であった。
 清軍は・・・寧波を包囲する体制をとり、同時にイギリスとフランスの艦隊が湾内に進入した。太平天国軍は砲撃を加えたが、艦隊は反撃して兵員を上陸させた。イギリス・フランス軍は太平天国軍を圧倒し、清軍に突入の機会を与えた。寧波を確保した清軍は、周辺地域への攻撃を開始した。・・・ウォード率いる常勝軍も清軍とともに寧波から約16キロ離れた慈渓に派遣された。
 9月20日、ウォードは慈渓への攻撃を開始したが、戦闘中に致命傷を負った。しかしウォードは戦場に残って勝利を見届け、翌日に死亡した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%88%E6%B8%93%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
 ウォードが上海郊外の戦場で死ぬと、英国は、結局、自分の国の人間である、チャールズ・「支那人」・ゴードン(Charles “Chinese” Gordon)<(コラム#208、590、4284、4902、5310)(注11)>でもって、太平天国との戦いをつづけた。
 (注11)1833~85年。英陸士卒。「ウォードが戦死すると、淮軍の司令官李鴻章は代わりの司令官を英軍から出すよう要請したため、スティーブレイ将軍はゴードンを常勝軍の司令官に推薦した。英軍少佐だったゴードンは、1863年に常勝軍の司令官となり、以降、1864年に太平天国が壊滅するまで各地を転戦し、乱の鎮圧に功績を挙げた。
 乱終結後、清朝から軍の最高官職を受けた。英国は彼を英軍中佐に昇進させ、バス勲章(コンパニオン)を与えた。ゴードンは、この後、本名をもじってチャイニーズ・ゴードンと呼ばれるようになる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%82%B4%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%B3
 また、プラットは、太平天国を改革的勢力と真剣に受け止め、清のためにこの叛乱を鎮圧したところの、曽国藩と李鴻章(Li Hongzhang)<(コラム#752、2166、4906)(注12)>という魅惑的な人物達を深く掘り下げる。
 (注12)1823~1901年。安徽省出身。1847年科挙合格。「太平天国の乱の際には団練を率いて太平天国軍と戦い、その後曽国藩の幕僚となり、団練を元に曽国藩の湘勇に倣って淮勇を組織した。1862年・・・、曽国藩の推薦で江蘇巡撫となり、上海防衛に功績をあげ、1863年・・・から1864年・・・にかけて蘇州・常州を奪回した。・・・李鴻章は1860年代以降の洋務運動の推進者の一人・・・<となった。>
 ・・・1870年・・・曽国藩の後を継ぎ直隷総督に就任した。この時に北洋大臣も兼ねたので淮軍はその後、北洋軍と呼ばれるようになった。李鴻章の代に北洋大臣が外交を管轄するようになり、外交を統括する機関であった総理各国事務衙門の機能は次第に縮小していった。・・・
  日清戦争の講和条約である下関条約では清国の欽差大臣(全権大使)となり、調印を行った。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E9%B4%BB%E7%AB%A0
 プラットは、帝政支那における最初の政治的改革のマニフェストが、騒擾が始まった時に、太平天国の指導者の従兄弟である洪仁カンによって発出されたことを我々に思い起こさせる。
 それは、米国の政治体制に範を取った政綱だった。
 米英の役人達は、キリスト教宣教師達に耳を貸すようなタマではなかったことから、太平天国にささやかにでも支援をしなかったこと、或いは若干なりとも交易をしなかったこと、をプラットは、たられば的に惜しむ。
 この本の終わりで、彼は、日本の長老政治家の伊藤博文が、イギリスが支那に関して犯した最大の過ちは、満州族が太平天国を殺すのを助けたことだと言ったことを、共感的に引用している。・・・」(A)
 「・・・英国の、交易上の理由から王朝側に立った、この支那における戦争への大災厄的介入が、英国が米国の南北戦争に介入することを防いだ。・・・
 プラットの本は、人種問題について、すなわち、英国人が支那人をいかに甚だしく劣等な人種と見ていたかについて、雄弁だ。
 支那人は支那人で、プラットが記すところによれば、「外国人<(欧米人?(太田))>兵士達の武器と練度の優位について、ほとんど神秘的な信条」を抱いていた。
 しかし、この信条は、この戦争が進展するにつれて、ゆっくりと破砕されて行く。
 人種主義は双方が抱いていた。
 将軍であるとともに儒学者であった曽国藩は、英国人達は「非文明的で御しにくく、彼らは儒教的概念であるところの、忠と信を理解できない」と思った、とプラット氏は記す。
 「彼らは、人をして君子(gentleman)たらしめるであろうところの、<儒教の>古典群について無知だった」というわけだ。・・・」(B)
(続く)