太田述正コラム#5551(2012.6.21)
<再び義和団の乱について(その2)>(2012.10.6公開)
「・・・義和団は、単純なスローガンを掲げた。
「外国人を絶滅せよ(滅洋)、[清]王朝を支えよ(扶清)」と。・・・
<前者については、>一応理屈はあった。
多くの支那人は、鉄道と電信の到来によって攪乱された諸産業で働いていた。
この近代的諸革新によって支那がバランスを崩してしまったのであり、これらの諸革新とこれらを持ち込んだ外国人達を破壊することによってのみ、バランスを回復することができる、という思いが<彼らには>あった。・・・
外国人宣教師達は、・・・極め付きに・・・攪乱的勢力だった。
とりわけ、北方の諸省において。
そして、山東省は、宣教師達、とりわけドイツの宣教師達・・が布教について本当に攻撃的であった諸省の一つだった。
宣教師達は単にその存在によって価値的声明を行っていた。
すなわち、要すれば、彼らは、「君達は不十分だ、君達の宗教は間違っている、君達の教育制度は間違っている。我々は君達を矯正してあげる」と言っていたのだ。・・・
<概括的に言えば、>英国人と米国人は市場に関心があったし、ドイツ人とロシア人は領土を欲しかったし、日本人は支配を欲しがり、彼らのアジアにおける二つの競争相手は支那人とロシア人であり、彼らは支那をコントロールすることを欲したのだ。・・・」(D)
(2)戦闘
「・・・1900年の夏の支那北部は、義和団の乱の場面だった。
それは、19世紀を含むあらゆる世紀における、最も自発的で非組織的で暴力的で正真正銘に特異な蜂起だった。・・・」(D)
「・・・宣教師のシドニー・ブルックス(Sidney Brooks)師<(注4)が>殺害され・・・最終的には、支那人のキリスト教徒達、鉄道従業員達、そして商人達に暴力が向けられた。・・・」(B)
(注4)Sidney M. Brooks。1899年の雪交じりの大晦日、ロバに乗っていくつかの教会や支那人キリスト教徒の小集団群を訪問すべく山東省の片田舎の自宅を出た、英国教会のブルックス牧師は、6人の義和団員に襲撃され、一時は身代金目的の誘拐に切り替えようとする動きもあったものの、ブルックスが逃げ出そうとしたこともあり、殺害された。
http://books.google.co.jp/books?id=5K9BN96p1hcC&pg=PA3&lpg=PA3&dq=Sidney+Brooks%EF%BC%9BBoxer+Rebellion&source=bl&ots=8JR_kGuJ_8&sig=qZDBMNNVBWWtFVD6kaNyIIRHSIU&hl=ja&sa=X&ei=Vu_iT7nXFKyUmQW7ypTNAw&sqi=2&ved=0CFUQ6AEwAQ#v=onepage&q=Sidney%20Brooks%EF%BC%9BBoxer%20Rebellion&f=false
「・・・5月に、「扶清滅洋」のスローガンの下に結集し、義和団は北京に降り立ち、外国人区域に攻囲攻撃を行った。
旗幟を鮮明にすることを強いられた西大后は、外国人使節団にこの首都から退出するよう命じた。
その後の戦争は、不安定だが熱心な8カ国連合によって戦われた。
この連合は 塘沽<(この書評子は、Daguと表示しているが、やはり、Tangguのことだろう。(太田))>の港から北京を目指し、オーストリア・ハンガリーとイタリアも含まれていた。
奇妙な紐帯が、すぐに仇敵となる競争相手の間で醸成された。
英国人とドイツ人、日本人とロシア人、それぞれが、互いに相手を顔色なからしめようと励んだ。・・・
政治と外交の技においては嘆かわしいものがあったけれど、清の軍隊は依然として恐るべきものがあった。
清がこの戦争に勝利することができなかったといっても、それは、支那人達が欧米人達によって威圧されたとか、戦術的洗練度に欠けていたというわけでは必ずしもない。
むしろ、連合国による天津の破壊と略奪の間、うまく戦った後、支那軍は、更なる戦闘を行う気持ちが、説明不可能にも、萎えてしまったように見えた。
仮に、彼らが、白河(Bai He)<(注5)>に沿って前進してくる外国人達を、単に間断なく攻撃して悩まし、間歇的に交戦しておれば、この侵攻者達は北京に到達することなど決してできなかったであろうことをシリビー氏は示唆する。
(注5)現在は海河(Hai He)と呼称。北京と天津を流れ、渤海に注ぐ。天津のところで、5つの支流が合体する。うち二つの支流は、大運河の一部を構成している。もう一つの支流は、北京の西南郊外であの盧溝橋(Marco Polo Bridge)がかかっている永定河(Yongding He)だ。
http://en.wikipedia.org/wiki/Hai_River
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%A7%E6%BA%9D%E6%A9%8B%E4%BA%8B%E4%BB%B6
歴史はむろんやり直しがきかないが、こうなっていたならば、多くのことが変わり、清に強化と近代化の余裕を与えた可能性すらある。・・・」(A)
(続く)
再び義和団の乱について(その2)
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