太田述正コラム#5557(2012.6.24)
<映画評論33:英国王のスピーチ(その2)>(2012.10.9公開)
ちなみに、封切り前の2010年のクリスマスに、この映画を贈られ、サンドリンガム・ハウスの映写室でこの映画を鑑賞した、ジョージ6世の娘のエリザベス2世は、「心を揺さぶられる父上の描写に感動した」という感想を伝えています。(A)
大変な讃辞である、と言うべきでしょう。
3 史実との「乖離」
私が関心を持ったのは、この映画の史実との「乖離」についてです。
よくあることですが、この映画は、鑑賞した際の効果を高めるため、史実を処々でまげています。
この映画は、まず、圧縮し、圧縮した範囲内で部分的には引き延ばしています。
つまり、ヨーク公時代のジョージ6世は、ライオネル・ローグ吃音療法士の施療を1926年に受け始めたというのに、映画では、その10年後から施療を受け始めたことになっている一方で、施療を受け始めてから数カ月で顕著な改善が見られたのに、映画では何年も経ってからようやく改善が見られた、ということになっています。(A)
また、1939年に英国がナチスドイツに宣戦布告した時に行われたところの、この映画のクライマックスたる、ジョージ6世によるラジオ演説の際、英国政府のお歴々が列席していますが、これは史実に反しますし、この映画でやたらチャーチルが登場するけれど、これもそんな事実はほとんどありませんでした。(A、E)
更に、施療の際に、ローグがカネを賭けたり、或いはヨーク公/ジョージ6世を、バーティ(Bertie)という綽名で呼んだりした、とは考えられないというのに、そういう場面が出てきます。
そしてまた、そもそも、ヨーク公/ジョージ6世の吃音症が誇張されているし、エドワード8世とウォリス・シンプソンの両名とヨーク公との関係が実際より険悪に描かれている、という指摘もあります。(A)
更にまた、映画は、1937年にスタンレー・ボールドウィン(Stanley Baldwin)が首相を辞任したのは、英国の再軍備を命じることを拒否したためであるかのように描いているけれど、本当のところは、「国家的英雄のまま、10年以上も頂点に座り続けたことで消耗しつくして」自ら退いた、という指摘もなされたところです。(A、D)
より注目されるのは、(昨年の12月に亡くなった)クリストファー・ヒッチェンス(ヒッチンス)
http://en.wikipedia.org/wiki/Christopher_Hitchens
が投げかけた激しい批判です。
まず、映画では、チャーチルがエドワード8世の譲位に反対でなかったように描かれているけれど、実際には、彼は、エドワード8世に対し、圧力に屈しないように、譲位しないように、と激励したではないか、というのです。(A)
「・・・チャーチルは、何ともはや、長きにわたって、自惚れ屋で甘やかされて育ったところの、ヒットラーに共感を寄せるエドワード8世に対して一貫して友人であり続けた。・・・
彼は、・・・ほぼ間違いなく、したたか酔っぱらった状態で、英下院に立ち現れ、支離滅裂な演説を行ったことで、自分の政治的資本をどぶに捨てた。・・・
・・・<その時、>彼は、早口で不明瞭なしゃべり方でもって、エドワード8世は、「この島の王冠をいただいた全ての元首の中で最も勇敢で最も愛された存在として歴史の中で燦然と輝く」だろうと述べたのだ。・・・
・・・エドワード8世は、<ドイツ>第三帝国の敬慕者であり、<譲位後、ウィンザー公として、>シンプソン夫人とその地へ新婚旅行に出かけ、ヒットラーとの間で敬礼を交わした光景を写真に撮られた。・・・
チャーチルは、最終的に、<ウィンザー公>を欧州から遠ざけ、バハマ諸島の総督という閑職を与え、<彼を>そこで厳しい監視の下に置かざるをえなくなった。・・・」と。(B)
また、この映画が、ナチスドイツに対して宥和的であった当時の英国政府に対して甘すぎる、という批判もヒッチェンスは行いました。(A)
「・・・<チェンバレン首相>がミュンヘン<でのヒットラーとの会談>からヘストン(Heston)飛行場に戻ってくると、ジョージ6世は、正装させた侍従を迎えに出し、バッキンガム宮殿に直行するよう<彼を>招いた。
国王のジョージ6世からの文書のメッセージには、「私の深甚なる心からのお祝いを個人的に表明したいので」来駕を乞う、とあった。
「その忍耐力と決意によって、大英帝国全域の同僚たる人々の恒久的な感謝の念を得た人物への最も暖かい歓迎の念を本親書は届けるものである」と。
<バッキンガム宮殿にやってきた>チェンバレンは、次いでこの宮殿のバルコニーでお披露目され、歓呼の声をあげる群衆の面前で、王族達によって敬意を表された。
かくして、ミュンヘンでの<チェコスロヴァキアのズデーデン地方のヒットラーへの>贈呈は、この首相が議会に赴き、自分がやったことの申し開きをする前に国王による同意を得たのだ。
反対勢力は、ゲームが始まる前に王を詰められてしまった、というわけだ。・・・
国王自身は、ナチス軍がスカンディナヴィアに深く侵攻し、かつ、低地諸国を横切ってフランスに侵攻した後になってさえ、チェンバレンの辞表を受理しようとはしなかった。
国王は、「彼に対し、いかに彼が甚だしく不当に扱われていることよと述べ、自分としてはまことに残念に思っている、と語った。」
<また、>次の首相について、国王は、「私は、もちろん、ハリファックス[卿]を示唆した」と記している。
国王に対しては、このような頗る付きの宥和主義者ではダメだし、いずれにせよ、選挙で選ばれていない上院議員によって戦時連立政権が率いられるわけにはいかない、という説明がなされた。
それでも納得せず、国王は、彼の日記に、チャーチルが首相になるという観念には違和感を覚えざるを得ず、敗れたハリファックスに対し、チャーチルの代わりに彼が首相に選ばれて欲しかったと伝えることで慰労した旨を記した。・・・」と。(B)
(続く)
映画評論33:英国王のスピーチ(その2)
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