太田述正コラム#5592(2012.7.11)
<戦前の衆議院(その1)>(2012.10.26公開)
1 始めに
XXXXさん提供の『第六十九回帝國議會議事摘要』から、かねてよりの私の戦前史観を裏付ける箇所・・一見背馳するようで実はそうではない個所を含む・・をご紹介して行きたいと思います。
なお、第六十九議會は、1936年(昭和11年)の5月に開かれています。
なお、1932年5月に、五・一五事件の後、「軍部の意向と犯行におよんだ軍人に同情的な世論をかんがみた妥協の結果として、」1924年6月から続いていたところの、いわゆる憲政の常道が中断するに至った
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%86%B2%E6%94%BF%E3%81%AE%E5%B8%B8%E9%81%93
ものの、いまだ英国的な挙国一致政府にはなっていなかった、という時代背景があります。
また、申し上げるまでもありませんが、1936年2月(26~29日)に二・二六事件が起こったばかりであり、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E3%83%BB%E4%BA%8C%E5%85%AD%E4%BA%8B%E4%BB%B6
翌1937年7月(7日)には盧溝橋事件が起こり、日支戦争が始まる、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%A7%E6%BA%9D%E6%A9%8B%E4%BA%8B%E4%BB%B6
という頃でもありました。
時の首相は広(廣)田弘毅(コラム#3958、4427、4429、4618、5042)、外相は有田八郎(コラム#3784、4274、4374、4392、4618、4998、5440、5569)、陸相は寺内寿(壽)一(コラム#4618、5010、5013、5382)(注1)でした。
(注1)1879~1946年。高等師範学校附属尋常中学校・星城学校・陸士・陸大。1919年に伯爵を襲爵。1943年に元帥。「第18代内閣総理大臣などを歴任した元帥陸軍大将寺内正毅の長男で、皇族以外では唯一陸海軍を通して親子2代で元帥府に列せられた人物。
・・・二・二六事件の後、陸相として皇道派の追放(粛軍)を主導し、「追放された連中が陸相になれないように」との口実で軍部大臣現役武官制を復活させ、・・・また、衛生省(現・厚生労働省)の設立を提唱。・・・<そして、>「腹切り問答」後に議会解散を要求し、広田内閣を総辞職に追い込んだ。
太平洋戦争(大東亜戦争)期には、編成時から一貫して南方戦線の全陸軍部隊を統括する総軍である南方軍総司令官を務めた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BA%E5%86%85%E5%AF%BF%E4%B8%80
逓信省の高官であった松前重義は、「当初日米開戦には賛成したが、開戦後、日本の生産力ではアメリカに遠く及ばないという現実を知った。この結果を海軍軍令部に報告、東條内閣打倒を触れ回り、1944年には勅任官にであるにも関わらず、二等兵として召集され、南方戦線に送られた」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%89%8D%E9%87%8D%E7%BE%A9
「<寺内は、>総司令官名での辞令を連発して事実上<松前を>スーツ姿で軍政顧問として働くようにし・・・た。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BA%E5%86%85%E5%AF%BF%E4%B8%80 前掲
以下、カタカナはひらがなに、また、旧字体や旧仮名遣いは新字体、新仮名遣いに適宜改めたことをお断りしておきます。
2 戦前の衆議院
<廣田首相>(1936.5.6)
・・・時局に対する周到なる認識を深め、挙国一致して積弊を芟<(さん)>除し、確固たる国策の樹立と、其の実行とに邁進すべきであると信ずるのであります。・・・
→有事であるとの認識を示唆しつつ、挙国一致体制樹立の必要性を訴えているわけです。(太田)
我が立憲政治は畏れ多くも欽定憲法に依って定められたる、制節ある政治でありますが、遺憾ながら其の真の意義が未だ十分に国民に浸透せず、其の運用宜しきを得ざるものありしが為め、諸々の弊害を醸し、延いて矯激なる行動に出ずる者を見るに至ったかと察せられるのであります、・・・
→有事だから、挙国一致体制樹立の必要性があるのに、政党が平時感覚で政争に明け暮れていると言いたいところをこらえ、選挙民たる国民の責任への言及にとどめた、といったところでしょう。(太田)
国体観念を明徴にすることは常に深く留意すべき事でありますが、殊に最近の情勢に鑑みまして、現下喫緊の要務であります。是が為め有する方途を講ずべきは勿論、就中文教を刷新し、国民精神を作興すると共に、国体と相容れざる思想を芟除することに鋭意力を致す所存であります。
→自由民主主義的な日本の国体と相容れない、左の共産主義、右のファシズムとの対決姿勢を改めて打ち出した、ということです。(太田)
顧念うに明治以来欧米文化の輸入は、我が国の文運に大なる貢献を為したことは申す迄もありませぬが、一面其の弊も漸く繁く、教学上刷新を要すべき幾多の事態を生ずるに至ったのでありまして、外来の文化を醇化して、日本固有の精神の下に、我が国の教学を確立し、我が国独自の文化の進展に努めたいと思うのであります。
→縄文的文化の作興を訴えたもの、と解すればよいでしょう。(太田)
帝国一貫の外交方針が、国際信義に立脚して列国との誼を敦うし、東亜諸国の共存共栄、特に日満両国の特殊不可分関係を基調として、東亜の安定力たるの実を挙げ、延いて世界の平和、人類の福祉に貢献するに在りますことは今更申す迄もありませぬ。政府に於きましては此の趣旨に依り統一ある自主積極的外交の確立を期するものであります。
→ほぼ、同じ言い回しが、少なくとも私が官僚であった頃までは、首相や防衛庁長官の国会答弁で使われていたことは懐かしいと同時に面白いな、と思いました。(太田)
此の故に対満関係に於きましては、国民全般の対満認識の徹底を図り、満州国との経済上其の他の関係を益々緊密にすべく努力せねばなりませぬ。然るに「ソ」連邦は帝国の意図に関して不当なる憶測を加え、極東に過大なる軍備を施すが如きは、帝国の甚だ理解に苦しむ所でありまして、政府は先般来同国政府との間に、国境紛争防止の為に有効適切なる措置を講ぜんことを交渉中でありますが、速やかに日「ソ」間の諸懸案を解決し、同国政府が右事態の緩和に協力せんことを期待するのであります。
→日本の対外政策の基本が対ソ抑止であることを改めて宣明するとともに、満州国建国は、対ソ抑止の手段・・策源地の確保・・であったことを示唆しているわけです。(太田)
之に引き替え支那の政局が引き続き比較的平静の状態を保って居りますことは、政府の欣快とする所であります。併ながら既往の経験に鑑みまして、表面平静なるが如き支那の政局には、新旧幾多の難関の存することも亦看過し難き所でありまして、政府としましては常に支那政局の推移に対する深甚の注意を怠らず、支那が其の抗日反満の態度を是正し、日満支三国間に親善提携が促進せられ行くように、是が施策に遺憾なきを期して居る次第であります。仍て支那側も一日も速に帝国の此の真摯なる期待に応じて、右共通目的達成の為に、進んで我が方と協力すべく、一段の努力を払わんことを希望するのであります。
→支那への言及がソ連(及び満州)への言及の後に来ていることは、対支政策もまた、対ソ抑止の手段・・ただし、後背地の確保・・であることを示唆するものです。(太田)
此の如き国際情勢の現状に鑑みまして、克く列国の動向に留意し、国防の充実並びに之に関する諸施設の整備拡充に力を致して、国防上の不安を一掃すると共に、広義なる国防の見地に立脚して、我が国資源の保育と其の統制運用準備とに、一層の策励を加えんことを期する次第であります。・・・」(六~八頁)
→総動員体制整備の必要性を訴えているのです。(太田)
(続く)
戦前の衆議院(その1)
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