太田述正コラム#5596(2012.7.13)
<戦前の衆議院(その3)>(2012.10.28公開)
<寺内陸相>(同上)
「・・・<二・二六事件において、>彼等を駆って此れに至らしめたる国家の現状は、大いに是正刷新を要するものの多々存在することは之を認めらるるのでありまするが、反乱行動までに至れる彼等の指導精神の根底には、我が国体と絶対に相容れざる、極めて矯激なる一部部外者の抱懐する国家革新的思想が横たわって居ることを看逃す能わざるは、特に遺憾とする所でございます。・・・」(二0頁)
→耳タコかもしれませんが、寺内は、帝国陸軍を代表して、対ソ有事にあいふさわしい挙国一致内閣の確立・・政党間の政争の凍結と表裏一体の関係にある・・、そして、国内における軍事安全保障基盤の確立(総動員体制/日本型経済体制の整備)、が喫緊の課題であることを認めた上で、右と左の全体主義(ファシズムと共産主義)を排すべきことを宣明した、と受け止めるべきでしょう。(太田)
<小山松壽(注3)議員>(5.6)
(注3)1876~1959年。「1895年東京専門学校(現・早稲田大学)法律科を卒業後、中国研究のため福建省廈門に渡り、貿易事情を中心に調査活動を行っていた。1900年、大阪朝日新聞より<義和団の乱の>戦時特別通信員を委嘱されたことを契機に、新聞界入りすることとなる。
帰国後の1902年、大阪朝日に正式採用され、名古屋通信部に赴任する。1906年、小山の手腕を見込んだ『中京新報』社長山田才吉より同紙を譲り受け、『名古屋新聞』と改題し新聞経営に乗り出す。普選運動を支持し、講演会に女性解放運動家の平塚雷鳥を招くなどの進歩的な論調で名古屋市内にて購読者層を拡げ、郡部を基盤とする政友会系のライバル紙『新愛知』と熾烈な販売競争を繰り広げた。一方で1906年名古屋市議当選を期に政界にも進出し、1915年には名古屋市選挙区から最高点で衆議院議員に当選した。以後10回連続当選。
1916年に憲政会結成に参加。1925年には加藤高明内閣にて農林政務次官を務める。立憲民政党幹事長(1929年)、衆議院副議長(1930年~1931年)を経て、1937年衆議院議長に就任する。<(~1941年)>
1938年3月16日、社会大衆党の西尾末広は国家総動員法の賛成演説の中で「スターリンのごとく」大胆に進めと演説したところ、共産主義を推奨していると攻撃された。西尾はその場で該当箇所を取り消すと発言するも、小山は受け容れず懲罰委員会に付し、結局衆議院除名となった。・・・
1940年2月2日、民政党の斎藤隆夫は「支那事変処理に関する質問演説(反軍演説)」において、舌鋒鋭く政府・軍部批判を行った。散会後に軍部の政府委員から演説に対して非難の火の手が上がると、小山はすぐさま職権で(斎藤の了解を得てはいたものの)演説の後半部分、全体の3分の2を削除した。それでも攻撃が緩まないと見るや、民政党幹部と協議の上西尾と同様に懲罰委員会送りにし、最終的に除名処分となった。・・・」
1942年、新聞統制で『名古屋新聞』と『新愛知』が合併し中部日本新聞社が誕生すると、小山は新聞界の第一線から身を引く。戦後は日本進歩党に参加するも1946年に公職追放され、以後は引退生活に入る。・・・」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%B1%B1%E6%9D%BE%E5%AF%BF
「・・・国民大衆には未だ此の<二・二六>事件の実相が分かって居ないのみならず、却って種々の流言蜚語が行われ、人身は依然として相当不安の状態に在ります。或いは粛軍は果たして十分に徹底的に行わるるか否か、又将来再び斯かる不祥事を繰り返すが如き虞なきや否や、或いは外部の矯激なる思想がどの程度に軍隊内部に浸潤しつつありや、又共産党の思想と今回の事件との間に、思想的に何等か相通ずるものなきや如何、是等の点に付いて国民は甚だしく疑惧の念を持って居るのであります。・・・
→衆議院議員の間でも、共産主義への警戒感が高かったことがうかがえる箇所です。(太田)
何れよりも必要なるは、言論の自由が保障されなければならなぬのであります。近来何となく言論機関は抑圧を感じて居るようであります。勿論矯激なる言論は十分之を防遏することは当然でありますが、然らざるものに対しては自由に言論を盡さしむるこそ、人心を安定し、社会の溌剌たる進運を見るのであります。近来言論機関の機能が十分に発揮されない為に、却って流言蜚語を盛んならしめ、所謂怪文書の横行跋扈を恣にし、人心を不安に導いて居ること多大であります。政府が真に立憲の洪猷を翼賛し、挙国一致を求め、更始一新の気運を作り、興隆日本の実を挙げんと致しまするならば、先ず努めて言論の自由を図らねばならぬと信ずるものであります。申すまでもなく言論の自由を抑圧するが如き–社会状勢其のものを匡救するにも、言論の自由を俟たなければならないのであります。要するに言論の自由が一歩後退する時に、非常時的不安が一歩前進するのであります。真に非常時を克服する為には、言論の自由が回復されなければならぬと信ずるのであります。私は此の際総理大臣にお尋ね致します。戒厳令中一部の施行は、其の当時としては事情已むを得ざるものがあったでありましょう。併し尚お今日之を継続するの必要がありますか、是が撤廃に付いては其の要望もあります。此の点に付いて明確なるご答弁を此の場合戴きたいと思います。」(二二頁)
<潮(注4)内相>(同上)
(注4)潮恵之輔。1881~1955年。「郁文館中学、一高を経て、1907年、東<大法卒、>内務省入省。・・・衛生局長・地方局長などを歴任した。1928年に内務次官となり・・・1931年に貴族院勅撰議員となる・・・。翌1932年、・・・再度内務次官を務めて文官任用令改正、選挙粛正運動などに関与した。
1936年、廣田内閣に内務大臣兼文部大臣として入閣した。軍部と一定の距離を持ち、党派色が薄いという理由での起用であったが、内務省内の革新官僚が内相任命反対運動を行ったため、報復として唐沢俊樹・安倍源基・相川勝六ら有力革新官僚の休職処分・左遷が行われた。だが、党派色排除を掲げて内務政務次官に鍋島直縄、同参与官に肝付兼英とともに自分と同じ貴族院議員を起用(事務次官は湯沢三千男)したため、政党・軍部からも反発を受けた。
1938年に枢密顧問官に転じた。戦後の1946年に清水澄の枢密院議長昇進に伴って後任の副議長となった。日本国憲法施行と同時に枢密院が廃止、後に公職追放を受けて引退した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BD%AE%E6%81%B5%E4%B9%8B%E8%BC%94
「・・・言論の自由を尊重すべきこと、言論機関に濫りに掣肘を加うべからざること、御趣意の点は全く御同感に存じまする。現に数年前から最近までの状況を調べて見ますると、昭和七八年の頃に較べますれば、此の言論の自由に対する制限は余程緩和されて来て居ったのでございます(其の他発言する者多し)唯外交と軍事に付きましては尤も…外交と軍事に関する事項に付いてだけ、相当厳重なる制限が加えられて居りました。然るに最近先般の事件以来、特に言論に於いて慎んで戴きたい点がありまするので、極めて最近に於いては遺憾ながら多少此の制限が加重されて居ると云うのは実況であります。努めて政府は小山君のご質問の御趣意に御同感でありまするから、避け得られるだけは左様なことは避けます。御話の通り余りに之に強い制限を致しますれば、却って怪文書の横行と云うこともありまするので、それ等の点を十分に考えまして–殊に将来は慎重なる態度を以て進むことに致します。」(二六~二七頁)
→有事であることを忘れているかのような、いささか牧歌的過ぎる、教科書的な言論の自由に関する質疑と答弁ですが、対英米開戦のわずか5年前の日本が、紛れもない自由民主主義国家であったことは、このやりとりを読むだけで明らかである、と言えるでしょう。(太田)
(続く)
戦前の衆議院(その3)
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