太田述正コラム#5604(2012.7.17)
<戦前の衆議院(その7)>(2012.11.1公開)
<廣田首相>(同上)
「・・・私は是まで日本の外から見た経験が多いのであります。今日日本の大体の国勢と云うものは非常な進歩を致して居る。日本では随分外に対して恐怖の念がありますが、私は寧ろ外の方が日本に対して恐怖の念を余計持って居ると云う感じを持って居るのであります。・・・
今日の世界の事情では、齋藤君がお述べになりましたような、理想的の平和の時代では私はないではないかと考えて居るのであります。どうしても是は武装的平和の時代でなければ、真に日本の進むべき正しい道に進むことが出来ないのは、今日已むを得ぬのではないか、其の点に付きまして政府と致しましても出来るだけ産業と国防の調和を図りまして、万違算なきを期したいと思って居る次第であります。」(九九~一00頁)
→ここに引用した前段と後段の間には、議事録1頁ほどの発言があるのですが、こうして両者をくっつけてみると、前段では脅威がないと言い、後段では脅威があると言っていて、矛盾しています。
恐らく前段は、外務官僚あがりの廣田のホンネが出てしまった不規則発言ではないでしょうか。
ここで、廣田と寺内陸相との関係を理解すべく背景事情を抑えておきましょう。
「<廣田内閣の>組閣にあたって陸軍から閣僚人事に関して不平がでた。好ましからざる人物として指名されたのは吉田茂(外相)、川崎卓吉(内相)、小原直(法相)、下村海南、中島知久平である。吉田は英米と友好関係を結ぼうとしていた自由主義者であるとされ、結局吉田が辞退し広田が外務大臣を兼務し(かわりに吉田は駐英大使に任命される)小原、下村らも辞退、川崎を商工相に据えることになり3月9日、広田内閣が成立した。
就任後は二・二六事件当時の陸軍次官、軍務局長、陸軍大学校長の退官・更迭、軍事参事官全員の辞職、寺内寿一陸相ら若手3人を除く陸軍大将の現役引退、計3千人に及ぶ人事異動、事件首謀者の将校15人の処刑など大規模な粛軍を実行させた。しかし軍部大臣現役武官制を復活させ、軍備拡張予算を成立させるなど軍部の意見を広範に受け入れることとなる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E7%94%B0%E5%BC%98%E6%AF%85
川崎卓吉(1871~1936年)は一高東大法、内務省、同次官を経て貴族院勅選議員、「1929年・・・に濱口内閣の法制局長官、・・・1931年・・・には第2次若槻内閣の内閣書記官長を歴任。・・・1932年・・・、民政党総務。政治思想の動揺期にあって議会政治の尊重、ファッショ反対を打ち出し政民連携に奔走した。・・・1935年・・・、民政党幹事長に就任。・・・1936年・・・、岡田内閣の文部大臣として初入閣を果たしたが、・・・続く廣田内閣では内務大臣に予定されていたが、陸軍の<反対>で商工大臣に回された。商工相として親任式当日の閣議に出た後に病気で倒れて・・・死亡。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E5%B4%8E%E5%8D%93%E5%90%89
小原直(1877~1967年)は、一高東大法、裁判官/検察官、司法次官(「この時期に各省次官合同会議で外務次官であった吉田茂と親交を結び、戦後死去するまで交友関係が続いた。」)、「岡田内閣の司法大臣・・・次期広田内閣では留任が望まれていたにも拘らず、陸軍から陸軍大臣内定者寺内寿一の名において国体明徴問題などの処置に難ありとして組閣への干渉を受けたため、・・・入閣を阻止された。阿部内閣で・・・内務大臣兼厚生大臣・・・。閣僚退任後は弁護士業を開業し戦後に至る。戦後、・・・第5次吉田内閣で法務大臣を務めた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%8E%9F%E7%9B%B4
下村海南(本名:下村宏。1875~57年)。一高東大法、逓信省、朝日新聞社副社長、貴族院議員、日本放送協会会長、国務大臣(内閣情報局総裁)、拓殖大学学長。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E6%9D%91%E6%B5%B7%E5%8D%97
中島知久平(1884~1949年)は海軍機関学校、海大、海軍を退官し、後の中島飛行機製作所を設立、1930年、総選挙に立憲政友会公認で立候補して初当選、1938年鉄道大臣、1945年、終戦直後に東久邇宮内閣で軍需大臣、商工大臣。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B3%B6%E7%9F%A5%E4%B9%85%E5%B9%B3
ウィキペディアの記述だけでは、(私は、中島の孫の中島洋次郎とは接点があったところ、)どうして陸軍が中島知久平に難色を示したのか判然としませんし、川崎についても今一つ判然としませんが、戦後、吉田茂が、個人エゴと外務省益のために、憲法第9条を「定着」させ、結果として日本を米国の属国へと貶めてしまったことを考えれば、そんな反軍・英米事大主義者の吉田はもちろんのこと、吉田のポン友であった小原を、陸軍が嫌ったことは、大いに理解できますし、中島や川崎に付いても、それぞれ相応の理由があったに相違ありますまい。
もちろん、吉田を外相に据えようとした廣田自身に、陸軍、より端的には寺内が強い不信感を抱いていたことは間違いないでしょう。
当時の帝国陸軍の、内外情勢把握能力の高さには、ただただ舌を巻くほかありません。
(さすがの陸軍も、有田については把握不十分だったようですが・・。)(太田)
<寺内陸相>(同上)
「只今齋藤君のご質問、軍部に関しまするご質問、洵に熱誠適切なる御所論を承りまして、私は其の論旨に付きましては同感でございます。此の事件の将来に付きましては、昨日来両回此の壇上に立ちまして申し上げた通りでございます。尚将来私共は陸軍の全力を挙げて、現下の非常時局に当たりまして宏謨を翼賛し奉る為、其の最善と信ずる所に従ってご奉公の誠を致したいと思います。尚一言。第一に御尋ねになりました軍人の政治に関する件、之に付いて一言申し上げて置きます。御話の通り吾々の政治に関する信念は、先ほど述べられました<軍人>勅諭の、世論に惑わず、政治に拘らず、ただ一途に己が本分に忠節を守り云々、是が信念でございます。軍部に於きましては、政治は不肖私を通じて干与する点に付きましては、過日も能く全軍に徹底をするように申し述べました・・・。尚現役軍人と政治干与に関しまする法的根拠と致しましては、先程も其の一端を御述べになりましたが、衆議院議員選挙法及び之に準ずる法令並びに陸軍刑法、軍隊内務書等の法令諸条規に於いて、其の禁止を明示せられたる事項、即ち各種議員の選挙権、被選挙権の行使、或いは政治に関し、上書、建白、請願を為し、或いは演説若しくは文書を以て意見を公にする等は、現役軍人に禁止せられたる政治干与なり。之を以て私の答弁を終わります。」
→全文を引用しましたが、齋藤に対してはもちろんのこと、廣田の「不規則発言」にも言いたいことは山ほどあったことでしょうが、二・二六事件直後の国会だけに、模範的答弁に徹した、というところでしょう。
なお、廣田にしても寺内にしても、議員を「君」よばわりしていることは、議長や委員長が一般議員を「君」よばわりするだけで、首相や大臣は、議員に対して、委員会においても「委員」と呼ぶことすら稀で、「先生」呼ばわりすることが多い、現在の日本の国会のことを思うと、戦前の国会の方がはるかに良識的であった、と思います。(太田)
(続く)
戦前の衆議院(その7)
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