太田述正コラム#5610(2012.7.20)
<戦前の衆議院(その10)>(2012.11.4公開)
<村松久義(注15)議員>(同上)
(注15)以下の経歴しか分からなかった。
1896~1972年。
http://www.jlogos.com/webtoktai/index.html?jid=10960260
1937年3月時点で立憲政友会衆議院議員。
http://diamond.jp/articles/print/14621
1939年2月18日、民政党の村松と他の1名の衆議院議員が提出していた「民族優生保護法」(断種法に代わる名)が衆議院の特別委員会で可決された。(次の衆議院本会議に上程される予定とある。)
http://takio.cocolog-nifty.com/article16.html
ちなみに、遺伝性疾患をもつ患者に対する断種国民優生法(断種法)が制定されたのは1940年。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E6%B0%91%E5%84%AA%E7%94%9F%E6%B3%95
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%AD%E7%A8%AE%E6%B3%95
戦時中、大政翼賛会国民生活活動員本部長。
http://www.kosho.or.jp/list/500/02972525.html
1952年10月1日 第25回衆議院議員総選挙 宮城2区 当選(5回目) 自由党
1953年4月19日 第26回衆議院議員総選挙 宮城2区 落選 吉田自由党
1955年2月27日 第27回衆議院議員総選挙 宮城2区 当選(6回目) 日本民主党
1958年5月22日 第28回衆議院議員総選挙 宮城2区 落選 自由民主党
http://kokkai.sugawarataku.net/giin/r00713.html
その後、参議院議員。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E7%94%B0%E4%BD%B3%E9%83%BD%E7%94%B7
なお、下掲の著書がある。
『生活戦体制へ』(? ?年)、『配給と消費をどうするか: 国土防衛下の生活再編成』(大政翼賛会宣伝部 1942年)、『翼賛の生活」(アマノ書店 1943年)、『時局講演: 錬成会講演記錄』(国有鉄道名古屋地方奉公会 1944年)
http://www.kosho.or.jp/list/533/02201330.html
http://www.google.co.jp/search?hl=ja&tbo=p&tbm=bks&q=inauthor:%22%E6%9D%91%E6%9D%BE%E4%B9%85%E7%BE%A9%22&source=gbs_metadata_r&cad=2
「・・・将来益々国防費の増加の予想せられて居りまする今日、軍事費が富の都会集中を齎すと云う事実を認識したる上に、之を矯正すると云う手段を施すのでなかったならば、軍事費の膨張は益々農村を疲弊せしめて、広義国防を脆弱ならしむる矛盾に陥るであろうと信じます。・・・」(一三六頁)
→以下のような興味深い答弁を引き出していることから、村松の質疑の一部を引用することにしました。(太田)
<小川郷太郎(注16)商工大臣>(同上)
(注16)1876~1945年。一高東大法、大蔵省、京大に移り6年間独墺等で財政学を学び、帰国後京大教授、同大経済学部長。1917年には、法学博士を授与され、また、衆議院議員総選挙に立候補して当選。以後、当選8回。民政党務調査会長を経て、「1929年・・・濱口内閣で大蔵政務次官・・・1936年・・・廣田内閣の商工大臣、1940年・・・第2次近衛内閣の鉄道大臣を歴任した。・・・1943年・・・大政翼賛会の総務<を経て>、ビルマ・・・のバー・モウ政権の最高顧問として同国に赴任し、財政再建にあたった。<1945年>4月1日、帰国途上、乗船していた汽船阿波丸が、東シナ海でアメリカ海軍の潜水艦によって撃沈され・・・死去した(阿波丸事件)。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%B7%9D%E9%83%B7%E5%A4%AA%E9%83%8E
「・・・各人をして其の自由な意思と責任とに於いて、其の独創力を十分に発揮せしむる現在の経済機構を守り立てて、其の上に色々な施設経営を致すべきものであると考えて居るのでありまして、現在の経済機構を打破すと云うようなことは、断じて避けなければならぬものと考えて居るのであります。併し現在の経済機構に於きましては、或いは資本の重複投下、或いは無謀の競争と云うようなことで産業界を不安ならしむるとか、或いは経済力の濫用に依りまして消費者の利益を害し、国民生活の安定を脅かすことも出て来るのであります。そこで産業の発展、貿易の伸長を期し、又国民生活の安定を期する為に、此の産業自由の根本主義に対しまして、相当統制を強化せしむる必要を痛感するのであります。・・・其の見地に立ちまして重要産業統制法中改正法律案を提出して居るのであります。・・・」(一四五頁)
→小川は、自由と統制の弁証法的総合を期したところの、日本型政治経済体制の何たるかについて、簡にして要を得た説明しています。(太田)
<寺内陸相>(同上)
「・・・農村の窮乏に付きましては、広義国防上の見地から、軍と致しましては、多大の関心を持って居ります。之が改善の為には最善の尽力を致したいと存じて居ります。現在に於いては軍隊の所在地、又軍需品の製造工場の所在地等の関係から、軍事費の使用が都会に集中の傾きにあることは之を認めますが、工業発達の現状に於きましては又已むを得ぬ所かとも存じます。併しながら軍に於きましては、予算の運用に於きまして多少の不利不便は忍びましても、農村の窮乏救済、中小工業者の寄与に努めつつあります。而して是等に貢献しつつあります金額は逐次増加を致して居ります。・・・」」(一四七~一四八頁)
<永野修身(注17)海相>(同上)
(注17)おさみ。1880~1947年。海兵、海大。「1913年から1915年まで米国駐在武官としてハーバード大学に留学。1920年から1922年まで再び在米国大使館付武官として米国駐在、ワシントン会議にも全権随員として参加。・・・海軍兵学校長・軍令部次長・横須賀鎮守府司令長官を務めた。・・・1935年12月からの第二次ロンドン海軍軍縮会議には全権として出席し、翌年日本の脱退を通告する。1936年3月9日、広田弘毅内閣の海軍大臣に就任し、「国策の基準」の策定を推進する。この時、三国軍事同盟を回避するため、海軍航空本部長に左遷されていた山本五十六を中央に引き戻し海軍次官に据えた。
1937年2月2日、広田内閣の総辞職に伴い、米内光政に海相の椅子を譲って連合艦隊司令長官(兼第一艦隊司令長官)となり、海上勤務に出る。後に再び軍事参議官。1941年4月9日、伏見宮博恭王の後任として海軍の軍令のトップである軍令部総長に就任(在任期間は1944年2月21日まで)。・・・1943年6月21日、元帥。・・・ポツダム宣言を受託・・・<の>際、・・・自決を図ろうとするも、親友の左近司政三に「生きることこそあなたの責任だ」と諭され自決を思いとどまった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E9%87%8E%E4%BF%AE%E8%BA%AB
「・・・農山漁村の振興は、軍隊の人的資源を主として之に置いて居りまする軍部と致しましては、重大なる関心を持って居ります。・・・」
→永野の、先の大戦における開戦・敗戦責任については、別途取り上げたいと思いますが、農村(や中小企業)への配意は日本型政治経済体制のウリの一つであるところ、この点に関しては、陸海軍の息が実によくあっていますね。(太田)
(続く)
戦前の衆議院(その10)
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