太田述正コラム#5618(2012.7.24)
<米国と黙示録的思想(その2)>(2012.11.8公開)
 (3)黙示録思想の特異性
 「・・・世界は時の終焉に同様に心奪われている文化ばかりである、というわけで<は>ない。
 自分自身の逝去(demise)に関する諸物語を自分自身に語り始めるという段階を欧米文化に設定したのは、現実にはイスラエル人達とその啓示(Revelation)だったのだ。
 この時点で、欧米は、時間が循環的(cyclical)で繰り返し的であるとの感覚から、時間が直線的で進歩的(progressive)である、という新しい物の見方へと転じ始めた。
 それまでは、歴史は、黄金、衰亡、滅亡、再生の各時代の無限の繰り返しだった。
 それが、今や、救世主の到来という終末点であるのか、核戦争による、全球的伝染病たる鳥インフルエンザによる、或いはY2Kによる、工業文明の崩壊といった、もっと世俗的な終末点であるのかはともかくとして、完結という究極的瞬間に向けての一方通行となったのだ。
 欧米の人々の頭の中では、大きな諸疑問に一挙に答えを出すところの、ギリシャ語でヴェールが上げられることないし発覚(apocalypse)することを意味するところの、「啓示(apocalypse)」、すなわち、宇宙的な「だから言っただろ」の下における、時間の終わり、は悪しき者へのたっぷりな苦痛と賢者に対する偉大なる救済(redemption)とを約束した。
 しかし、この観念は、他の諸文化によって共有されることはなかった。
 これら諸文化は、善と悪の時代の終わりなき循環を信じ続け、しかるがゆえに、欧米における進歩の観念とともに、その暗き側面であるところの、善と悪との最終戦争の観念を抱懐することはなかったのだ。・・・」(A)
 「・・・我々<欧米人>が時についてどのように考えるかで面白いのは、我々が直線的に考えることだ。
 人が直線的に考えるというのは、始まり、間、そして最も重要なのだが、終わり、という形で考えることだ。・・・
 我々は最終的かつ高名なる終わりの形で考えるが、古の人々はそのようには考えなかったのだ。・・・
 <古の人々の関心の>焦点は、はるかに多く、創造に向けられた。
 創造物語群は原住民の神話群において見出すことができる。
 <それに対して、>我々は、現実に、終末論(eschatology)を発展させた。
 それは、終わりに付いての研究だった。・・・」(E)
 「・・・「我々<米国人>」<は、自分達が、「終末」において神に嘉されることが決まっているところの、>選民であるとの観念<を抱いており、>ハーマン・メルヴィル(Herman Neville)は、米国は我々の時代におけるイスラエルであると喝破したものだ。
 <選民たる>我々は世界の諸自由の箱舟をつくりだす存在だ(注6)、ということこそが、常に我々米国人のアイデンティティの文字通りの中心だった。
 (注6)We bear the arc of the liberties of the world. のarcはarkの誤植であるとみなして、苦し紛れに訳してみた。
 ・・・<しかし、9.11同時多発テロ事件以降の>ジョージ・W・ブッシュの修辞・・この世から<テロリスト等の>悪を除去するという観念・・について、それと同じことを異なった文化、ないし非キリスト教民族に向かって語りかけるならば、彼らは、物事には終わりがあるという期待など持っていないがゆえに、ばかげている、と受け止めることだろう。
 古代史を通じて、多くの異なった諸文化は、善と悪の均衡について、それは、変化させ転じさせる血行停止(stasis)の類いのものである、と現実に見てきた。
 <支那文化における>陰陽は、この善と悪とが一つの抱擁の下で金縛りになっているとの観念の、東の諸文化における完璧な一例だ。
 <ところが、>欧米世界とユダヤ=キリスト教的伝統においては、人々は、善と悪とのどたんばでの対決を、無意識のレベルにおいてさえ、現実に期待しているのだ。・・・」(E)
(続く)