太田述正コラム#5638(2012.8.3)
<ロシアと国家マフィア主義(その1)>(2012.11.18公開)
1 始めに
「米国と黙示録的思想」(完結)、「中共と毛沢東主義」(未完)、と来れば、次はロシアを取り上げて欲しくなるのではありませんか。
そこで、「ロシアと国家マフィア主義」と銘打ったシリーズをお送りすることにしました。
手掛かりにするのは、エドワード・ルーカス(Edward Lucas)の新著、’Deception–Spies, lies and how Russia dupes the West’ です。
A:http://online.wsj.com/article/SB10000872396390444025204577545050152850954.html?mod=WSJ_Opinion_LEFTTopOpinion
(7月26日アクセス。書評(以下同じ))
B:http://www.telegraph.co.uk/culture/books/bookreviews/9287904/Deception-Spies-Lies-and-How-Russia-Dupes-the-West-by-Edward-Lucas-review.html
(7月30日アクセス(以下同じ))
C:http://democratist.net/2012/03/08/deception/
D:http://www.sptimes.ru/story/35839
(書評+著者のインタビュー)
E:http://standpointmag.co.uk/node/4384/full
(書評(以下同じ))
F:http://images.spectator.co.uk/books/7835783/fatal-entrapment.thtml
G:http://www.foreignpolicy.com/articles/2012/07/13/dark_soldiers_of_the_new_order?page=full
(著者による解説)
ちなみに、ルーカスは、現在、英エコノミスト誌の国際編集者であるとともに、同誌の中東欧の政治関係記事の監修者でもあります。
ウィンチェスター単科大学とLSE卒でインディペンデント紙やBBCの記者経験があります。また、エコノミスト誌のモスクワ支局長を務めたこともあります。
http://en.wikipedia.org/wiki/Edward_Lucas_(journalist)
「2008年に、・・・ルーカスは、・・・『新しい冷戦(The New Cold War)』を上梓し、論争的形式でウラディミール・プーチンの外交政策の検証を行った。
この本・・ロシアがグルジアと戦争をしたことによって大いに売れることになった・・とそのオオカミ少年的口調は、とりわけ、その年に、明らかに穏健な改革者たるディミトリー・メドヴェジェフがロシアの大統領に選出されたことに照らし、若干の人々から大げさであるとみなされたものだ。
しかし、我々は皆、その後どうなったかを知っているわけであり、「新しい冷戦」は、クールな分析、いや、先見性(prescience)、でもって古典の一つと目されるに至った。
こうして、ルーカスの株は着実に上がってきていたのだ。・・・」(D)
2 序に代えて
皆さんに、現在の英国の一流のジャーナリストと日本のそれとの力量の差を実感してもらうべく、最初に、NHK解説委員の石川一洋(いちよう)の「近代化と主権・現代ロシアを動かすもの」(『學士會会報 No.895』収録)のさわりをご紹介しておくことにしましょう。
「・・・エリツィンは・・・グリンカの愛国化を国歌とした。しかし国論がまとまらず最後まで歌詞が決まらない、歌詞のない異例の国歌であった。プーチンはメロディーを再びソビエト国歌に戻し、そこに新生ロシアを讃える愛国的な歌詞をつけ、新たな国歌とした<(注1)>。・・・
(注1)ソ連/ロシア国歌
ソ連国歌
http://www.youtube.com/watch?v=kVdVTVR-j0Q&feature=fvst
最初のロシア国歌(1990~2000年) 歌詞は候補の一つ。曲はグリンカが1833年に作曲したもの。
http://www.youtube.com/watch?v=xi-bgz0f9bM
現在のロシア国歌
http://www.youtube.com/watch?v=kMZfXN1UOpw
しかし革命の後の「反動」は旧体制・ソビエトへの回帰を意味するものではない。・・・
新生ロシアのアイデンティティは何であろうか。一つは歴史–ロシア帝国とソビエト連邦の継承国としての歴史である。次に民主主義と言うユニバーサルな理念と国際経済へ統合する市場経済、そして憲法に基づく法治主義を受容したことである。そしてウクライナなどほかの旧ソビエト諸国が民族国家の創設を進める中で、アジアとヨーロッパにまたがるユーラシアの帝国としての多民族国家のアイデンティティを追及(ママ)することである。・・・
プーチン<は、>・・・ストルイピン<(注2)>復活を進めている・・・。・・・
プーチン自身が発起人となったストルイピン基金がつくられ、今年中にはロシア政府庁舎近くに巨大なストルイピン像が建設される予定である。ウラジーミル・プーチンは保守的な改革者という点で帝政末期の宰相ストルイピンの正当な後継者と言えるだろう。・・・
国民の大多数は自由の制限や汚職の拡大という弊害を受け入れ、プーチンのもたらした安定を支持した。プーチンと国民の暗黙の契約「パンと自由の交換」である。
しかし時代は変化した。・・・2000年代の経済成長を通じてロシアでも中産階級の層が厚くなってきて<おり、>・・・管理された民主主義に対する不満が強まっている。・・・」(25~28頁)
(注2)Pyotr Arkad’evich Stolypin。1862~1911年。内相:1906年4月~1911年9月、首相:1906年7月~1911年9月。
「ストルイピンは、革命運動<を>弾圧<し>、戒厳令を施行し裁判の迅速を図って軍事法廷を導入した。死刑宣告を受けた被告は即日処刑された。こうして多数の人々が絞首刑に処せられ、絞首台は「ストルイピンのネクタイ」と皮肉を込めて呼ばれた。
ストルイピンは、「まずは平静を、しかる後改革を」基本方針とし、上述のような抑圧政策を取った。・・・改革は、・・・農業改革を主軸に、言論・出版・結社・集会の自由の拡大、ゼムストヴォの権限強化や、地方裁判所改革、県など地方自治体の再編を含む地方自治の近代化、中央政府の行政機構改革、都市労働者の生活改善、宗教改革、ユダヤ人の権利拡大まで極めて広範囲に渡った。・・・
ストルイピンは、農民が農村共同体(ミール)からの自由な脱退や、個人的な土地所有権の確認、・・・個人農の創設などの・・・農業改革を導入した。特に個人農の創設(すなわち農奴解放)は、これによりクラークと呼ばれる自作農階級が誕生し、クラークが階層として体制を支持することを期待し・・・た。しかし、ストルイピンの考えに反して、共同体(ミール)解体を嫌悪する農民を中心に多く国民から反対を生じせしめ、国会(ドゥーマ)やニコライ2世の支持をも失う結果に陥った。
1911年9月・・・、アナーキストで警察のスパイであったユダヤ人ドミトリー・ポグロフによって・・・銃撃され、・・・死去した。ストルイピンの死によってストルイピン改革は頓挫した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AB%E3%82%A4%E3%83%94%E3%83%B3
(続く)
ロシアと国家マフィア主義(その1)
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