太田述正コラム#5640(2012.8.4)
<ロシアと国家マフィア主義(その2)>(2012.11.19公開)
  それでは、いよいよ、ルーカスの本の紹介です。
3 ロシアと国家マフィア主義
 (1)三つの事例
 「・・・ロシアにおける生活の見苦しい裏面を探ることに伴う危険はセルゲイ・マグニツキー(Sergei Magnitsky)<(注3)>の運命が示したところだ。
 (注3)1972~2009年。裁判にかけることなく拘留できる1年間の期限直前の358日目に殺害された。
http://en.wikipedia.org/wiki/Sergei_Magnitsky
 彼は、牢獄に11か月間にわたって投げ入れられ、やがて拘束衣を無理やり着せられ自分の独房の床の上で死ぬまで殴打されることとなった。
 何の罪で?
 マグニツキーは、エルミタージュ資本管理(Hermitage Capital Managemen)という英国に本拠を置くファンド管理会社のロシア代表であり、このエルミタージュ資本管理に係る脱税のでっち上げられた嫌疑を巡ってロシア当局と長年にわたる紛争の下にあった。
 その過程で、彼は、強力なロシア人達が、ロシア史上最大の租税還付を詐欺的手法によって得て、ロシア政府から2億3000万ドルを剽窃したことを発見した。・・・
 <また、>この本・・・の中で、<ルーカス>は、拝金主義的(venal)で道徳観念のない<ロシアなる>国家が、いかに、冷笑的に欧米の自由な諸社会の公開性に付け込んで、<これら諸社会に>影響<を及ぼす>とともに腐敗の触手を伸ばしてきているかを示すことに乗り出している。・・・
 プレイボーイ誌のプレイメートのようなアンナ・チャップマン(Anna Chapman)<(注4)>は、正体がばれるまで、英国と米国で何年にも渡って諜報活動に従事した生活を送っていた。・・・」(B)
 (注4)1982年~。「ロシア対外情報庁(SVR)に所属するロシアのスパイ。・・・
 2006年に<2002年に結婚した英国人と>離婚するも姓は変えず活動。同年10月、PropertyFinder Ltd.社(Domdot.ru)を設立し、その社長となる。 2007年7月~2008年3月、投資会社KIT Fortis Investmentsの副社長。退職後、モスクワに戻り、ベンチャー企業の経営・支援に従事した。
 2010年2月、・・・核弾頭開発計画の情報を収集するスパイとしてアメリカへ入国、アメリカ人になりすまし、表向きにはマンハッタンの不動産会社(NYCrentals.com)、ベンチャー企業TIME Venchures を経営する敏腕女性社長を演じ、諜報活動を行っていた。
 FBIのおとり捜査員が接近したところ・・・モスクワへ逃亡する意思を示したため2010年6月27日、他の9人のスパイとともに一斉検挙された。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%8A%E3%83%BB%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%83%E3%83%97%E3%83%9E%E3%83%B3
 「若いイギリス男性のKGBの高級将官の娘との旋風のような短い結婚によって、アンナは20歳代初期に容易に英国籍(現在無効)を取得し、銀行とヘッジファンドにおけるかなり機微にわたる役割での仕事をしながら、米国に渡ることができた。
 この間、彼女は、ずっと、秘密事項に関する取引だけでなく、カネの略奪を含むところの、国際犯罪詐欺めいたものの一環として、ジンバブエとアイルランドのうさんくさい諸組織にも関わっていた。・・・」(D)
 「<エストニアのヘルマン(Herman)・>シム(Simm)<(注5)>は、ソ連による占領時代の上級警察官であり、稀なことではないが、1985年に低いレベルのスパイとしてソ連のKGBに雇われた。
 (注5)1947年~。1995年にエストニア国防省の防衛政策部の情報分析課の課長、2001年には新設された保安部の部長に就任し、後者のポストに2006年までとどまった。その後も秘密情報にアクセスできるところの、国防省顧問の地位にあった。2008年に逮捕され、2009年に大逆罪で、12年半の懲役と128万8000ユーロの支払い、という有罪判決を受けた。
http://en.wikipedia.org/wiki/Herman_Simm
 エストニアの独立後も、シムは、KGBのロシアにおける後継機関の指導責任者達によって引き続き管理されていたが、エストニアの国防当局で何の傷もなく昇進を続け、エストニアがNATOに2004年に加盟するとブリュッセルのNATO本部で最高の役割を担うようになった。
 ルーカスは、NATOの官僚達は、その不十分なチェックしか行わず、<しかも他人を>信用しがちな、純真にして楽観的な「ソ連圏崩壊後」的姿勢によって、シム自身による鉄面皮にして(nonchalant)全くの嘘とあいまって、シムのKGBとのつながりに気付くことに失敗したことを示す。
 ロシアのNATOに対する格別なる反感は、2000年代において、プーチンの諜報機関群(siloviki)の諸軍団の中で、憑りつかれたようなヒステリックな度合いに達したところ、NATOの心臓部にシムのような諜報員(asset)・・恐らくシム一人ではあるまい・・を抱えていたということは、いかに欧米が当時弛緩していたか、或いは現在でも弛緩し続けているかを示した。
 カネの見返りに、シムは、CIAが埋め込み諜報員の臭いを嗅ぎつけ、彼の逮捕を支援するまで、モスクワに秘密を渡し続けた。・・・」(D)
(続く)