太田述正コラム#5658(2012.8.13)
<欧米帝国主義論再考(その5)>(2012.11.28公開)
順序が逆になってしまいましたが、ここで、書評子達のミシュラ批判も紹介しておきましょう。
(6)ミシュラの見解への書評子達の評価
「・・・ベンガルの詩人でノーベル文学賞受賞者のラビンドラナート・タゴール・・彼はこの本の中に大きく影を落としている・・の予言者然とした諸声明が例示しているところの、<ミシュラによる>東方の精神性についての終わることなき・・・呪文は、今日においては奇妙に聞こえる。
今日におけるアジアや中東の政界と経済界のエリート達は、欧米の資本を我がものにしようと競い合っている<からだ>。
<また、>ドバイは言うに及ばず、ムンバイのブティック群や億万長者達、北京のプラダ<店>やルイ・ヴィトン<店>の全ては、タゴールの描いた地獄の光景そのものであり、モノ(stuff)に対する欧米の欲望の究極的な勝利だが、それは瞑想的な(contemplative)生活にさして争うこともなく勝利を収めた<からだ>。・・・
・・・タゴールとトインビーは、預言者的学者(scholar-seer)、そして、分裂した世界の統一者、として戦間期に抱懐されたものだが、<彼らに対するこのような高い評価は、>今日では雲散霧消してしまったように見える。・・・
そもそも、欧州諸国と米国によって無数のやり方で統治され屈辱を味わわされたことに集約される痛みを除き、地中海と太平洋に挟まれた<地域における、>極めて異なった諸信条(faiths)、諸言語、そして歴史的諸コミュニティに、真に共通するような「東方」などというものが、果たして存在したのだろうか。
→インド亜大陸は釈迦を生み出しつつも釈迦を、そして釈迦の追随者達が作り出した仏教も忘れてしまっているけれど、釈迦も用いたところの、瞑想という、人に自分の人間主義性に目覚めさせる精神修養法を受け継いできました。また、東南アジアや東北アジアには、仏教由来の人間主義思想の伝統が生きているか、(支那/朝鮮半島やインドネシアのように)その痕跡が残っています。更にまた、日本には(仏教到来以前に遡るが、仏教によって補強されたところの、)人間主義文化があり、この文化に基づき人間主義的実践が行われてきた伝統があります。
東方的精神性とは、私に言わせれば、人間主義性なのです。
他方、アングロサクソン諸国には、人間主義の要素こそあれ、それは平素は個人主義の陰に隠れてしまっていますし、欧州大陸諸国には利己主義と、(キリスト教由来の)利他主義の伝統しかありません。
そういうわけで、人間主義性と非人間主義性に着目する限りにおいて、東と西は、それぞれ実際に、互いに対置されるものとして存在してきた、と言えるでしょう。
なお、ミシュラ同様、この書評子も、「アジア」における帝国主義を、日本抜きの欧米諸国によるものだけに限定したために、最後のセンテンスの文脈の中から、論理必然的に朝鮮半島の人々の「屈辱」と「痛み」が抜け落ちてしまっています。(太田)
本当のところは、反植民地主義者であれ共産主義者であれ、コスモポリタンは20世紀には勢いがなくなり、植民地世界を通じて、テクノクラート、軍人、そして党官僚達の間に、ナショナリズムが急速に普及したのだ。
<そして、>遅くとも1930年代になると、汎イスラム主義と汎アラブ主義はどちらも政治的プロジェクトとしては死に、ナセルにも(それよりずっと後の)アルカーイダにも、もはやこれらを再生させる機会など与えられていなかったのだ。
<また、>汎アジア主義について言えば、ひとたび日本がそれを自分のバージョンの帝国主義に対する言い訳(excuse)に転用した瞬間に死の一撃をくらったと言えよう。・・・
→最後のセンテンスは、「汎アジア主義について言えば、ひとたび日本がそれを自分のバージョンの帝国主義、すなわち対赤露抑止という安全保障目的の帝国主義、とりわけ日支戦争/太平洋戦争、に対する言い訳(excuse)に転用した瞬間に、経済目的の帝国主義によって形成されたイギリス及び欧州大陸諸国の植民地の解放を目指すものへと再定義されたと言えよう。」と改めるべきでしょうね。(太田)
今日のアジアは、衝撃的なほど、政治的統合への真面目な勢いを欠いている。
結局のところ、国民国家としての誇りある独立を鍛造したアタチュルクのトルコが、最も有力なモデルであることが証明されたのだ。
→琉球処分も射程に入れれば、新たにトルコ民族を創造したアタチュルクのトルコほど鮮明ではないかもしれないものの、日本こそ、欧米的な近代的国民国家を「アジア」で実現した最初の国である、と言えそうです。(太田)
とはいえ、ミシュラの<この>本の、より深い真実は今日においても意義を全く失っていない。
<というのも、>我々は、いわゆる国際コミュニティの中の時代に生きている<からだ>。
<この我々の時代>は、もはや国家主権と国境の不可侵の聖域を尊重せず、前世紀のいかなる時に比べてもはるかに、容易に人道的理由で介入を行うという、欧米の倫理的諸関心によって突き動かされている。
欧米の政治家達は。トルコ人達に対して、<アルメニア人に対する>ジェノサイドを認めよと講釈を垂れ、支那人に対してはその人権侵害を叱責する。
多分、この本は彼らの道徳的正当性(righteousness)を若干の歴史的理解で補充することに役立つだろう。・・・」(B)
→私の言葉に置き換えれば、欧米の人々は人間主義に目覚めつつあるのであり、かかる背景の下で、人道的介入が欧米諸国のイニシアティブで行われるようになった、ということです。
なお、この関連で、「2007年<の調査によれば、>米国の成人の約9%が過去一年間に少なくとも一回瞑想しようとした(tried getting into their Zen zones)」ことが判明している
http://healthland.time.com/2012/08/10/can-meditation-make-you-smarter/
(8月13日アクセス)のは注目されます。
その大部分の人はストレスの軽減目的だと答えている(上記典拠)のですが、実際に瞑想した人は人間主義に目覚める可能性が高いからです。
(続く)
欧米帝国主義論再考(その5)>
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