太田述正コラム#5660(2012.8.14)
<欧米帝国主義論再考(その6)>(2012.11.29公開)
「・・・ミシュラは、欧米の帝国主義、就中英国の帝国主義は、本質的に傲慢で暴虐的で掠奪的(predatory)であると見る。
そして、英国の帝国主義に対する間断のない激論がこの本を投げかけられるが、これでは著者の客観性に疑問符が付いてしまうというものだ。
革命家達と帝国的統治の批判者達しか完全に引用されることがなく、仮に言及された場合でも、その尊敬を抱く者達と裨益者達の見解は、おべっか者の囀りと片づけられる<、ときているのだから・・。>。・・・
外国人による統治に憤懣を抱く者達の幾ばくかは、<インドのムガール帝国の皇帝以下の支配者達のケースのように、>彼ら自身、植民地になる以前は、より少なく利他的であったところの征服者<たる支配者>達であり、・・ちなみに、日本人の場合は、すぐに自力で植民者になった、・・チベットにおける、そして実に自身の人々に対するポスト植民地の毛沢東の支那のふるまいは、家父長的かつ相対的に恵み深い植民地統治よりも悪い体制があることを示唆するものだ。・・・
→北朝鮮と韓国の旧宗主国日本に対する非合理にして非論理的なヒステリックな断罪が「解放」後3分の2世紀経っても続いていることに鑑みれば、ミシュラ程度の批判に苛ついてどうするのだ、と言いたくなりますね。
それはともかく、本来、植民地統治は、植民地になる前の統治或いは植民地になってからの周辺の「独立」地域の統治と比較するとともに、植民者の同時代の本国における統治とも比較する、という形で客観的に評価すべきでしょうね。
なお、この書評子も、ミシュラ同様、(日本の帝国主義はさておき、)英国(より正確にはイギリス)の帝国主義と欧州大陸諸国の帝国主義とを区別して論じていないのは問題です。(太田)
ミシュラによる、イスラム教徒達の<欧米の帝国主義に対する>反応の分析はとりわけ典型的だ。
例えば、<彼は、>アルカーイダはユニークな現象ではなかったし、<そもそも、>イスラム教ないしはイスラム主義は首尾一貫した一枚岩的な勢力ではなかったとする。
そして、<ミシュラは、>基本的に、イスラム教徒(とヒンズー教徒)の外国人による支配に対する敵意は、(米国と英国は呑気にもアフガニスタンでこれを無視しているが、)外国人によって統治され、或いは支配される(dominated)ことを屈辱であると、理解できることながら、感じたりすることや、部分的には欧米の享楽主義、世俗主義、そして物質主義を恐れたり嫌がったりすること、に由来する<とする>。
<その上で、>ミシュラは、<植民地支配に対する>三つの主要な東方の反応は、<第一に、>忍び寄る欧米化に対して出来る限り敵対的な顔を示しつつ自分達自身の宗教的かつ文化的諸伝統に引き籠る、<第二に、>自分達自身の精神的文化的遺産にしがみつきつつ統治と産業化に係る欧米の技術を採択する、<第三に、>毛沢東・・や毛沢東と比べれば徹底性を欠く形でアタチュルク・・が追求したような急進的な革命と世俗化の採択、であったところ、アジア諸国はこの三つの<選択肢の>間を不安げに揺れ動いてきた、と論じる。・・・」(D)
→この第三の選択肢ですが、ミシュラは、(前に引用した箇所を踏まえれば、)アタチュルクが国民国家路線を、毛沢東が共産主義路線を、それぞれとった、と考えているようです。
この書評子は、ミシュラ批判をしようとして尻切れトンボになってしまった感がありますが、彼の気持ちを大胆に忖度すれば、英国に範をとるという東方の反応が抜け落ちている、ということではなかったのでしょうか。
私自身、アタチュルクの路線を「国民国家路線」ならぬ「ナショナリズム路線」と再規定した上で、この三番めの選択肢・・欧米化選択肢と言ってよいでしょう・・を二つのサブ選択肢に分け、アタチュルクらのナショナリズム路線、毛沢東らの共産主義路線に加えて蒋介石らのファシズム路線の三つを欧州大陸化サブ選択肢(=民主主義独裁化サブ選択肢)とし、これと並ぶサブ選択肢として、イギリス化サブ選択肢(≒自由主義サブ選択肢)を立てる必要がある、と考える次第です。
そして、このイギリス化サブ選択肢に入るものとして、(維新日本はさておき、)独立インドネシア、及び(独立インド等の)アジア/アフリカ英国等の旧植民地・・ただし、パキスタンやアラブ諸国等のイスラム諸国を除く・・が採択したところの、狭義のイギリス化路線・・ただし、イギリス化実現に向けての速度、それに伴う優先順位、は様々・・、及び、シンガポールや香港が選択した(民主主義抜きのイギリス化路線である)イギリス植民地体制維持路線がある、と言えるのではないでしょうか。(太田)
(続く)
欧米帝国主義論再考(その6)
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