太田述正コラム#5676(2012.8.22)
<エジプト日記抄>(2012.12.7公開)
1 始めに
本/資料の開梱作業を、最後に残った、一階の玄関左手の部屋で始めてから2日目、ずっと以前から探していたエジプト時代(1956年2月~1959年10月)の一冊目の日記(1956年4月~1958年4月)が出てきたので、懐かしさにまかせて、とりあえず、最初の方をご披露したいと思います。
2 日記より
・1956.4.5(少学2年生)
4月6日金よう はれ(晴)
ぼくはきょう学校へ入りました。学校の名まえは「マナハウス・スクール」です。そこは学校ともヨウチエンともちがって学校とヨウチエンのあいのこです。べんきょうがよくできれば一年せいでも二年せいにも三年せいにも四年せいでもいく年にでもなれます。日本なら二年せいだけどこっちではまだ学校にもなっていないのでつまらないですがべんきょうができればなん年にもなれます<(←飛び級のこと)>。だからその日のことをたのしみにしています。まだ学校とヨウチエンとのあいの<こ>だから<(←英語ができないので入学準備コースに入れられたということか)>せまいせまいおへやです。ぼくのいるへやにはたったの13人いるだけです。がい国<で>は日本のように二人ずつすわるのではありません。一人ずつにぼろぼろの小さないすとつくえがぼろたちになって<(←意味不明)>ゆかの上においてあります。先生はこわい先生です。二人もたたされました。たたされかたにもたちかた<(=立ち方)>がありりょうほうの手をあたまの上へのせてかべにあたまとかおをひっつけてあしはかがしのように一ポンでたっています。ほんとにぼくはかわいそうにおもいました。<(←この厳しさがやがて私自身に適応障害を引き起こさせることになる。)>その学校は土ようびと日ようびと<が>おやすみです。日よう日は日本でもやすみですね。そのかわり、土よう日もおやすみです<(欧米系の小学校だということもあり、イスラム教の休日である金曜日を休みにしていなかったのでしょうね。それにしても、1956年当時に既に週休2日制になっていた、というわけです。)>から、ぼくはすきです。いまぼくは九九のおけいこをしました。四のだんのくくです。だいぶいえるようになりました<(←恐らく、英語で九九を覚えようとしていたのだろう。)>。あした学校へいけばあと二日はやすみです。うれしいな。おわり
・1956.4.9
4月9日月よう日はれ(晴)くもがおおい
今日の朝おきてみたら学校のじかんいっぱいでおどろいてしまいました。ごはんを早くたべてすぐにじどうしゃ<(←もちろん、運転手付)>にとびのって「マナハウス」にいきました。
・・・
びょうきに、なりましたから、ちょっとにっきをやすみます<(←この学校で適応障害を起こし(?)体に変調をきたしていたことがうかがえる。)> にっきさん、さようなら グウドバイguldbay<(←英語を耳から覚え始めているけれど、綴りまでは分からなかったということだろう。しかし、下掲を見ると、その3週間後には、かなり英語力が身に付くに至っていたことが分かる。)>
・1956.5.1
5月1日火よう日 てんき はれ
こないだからillびょうきばかりしていました。今日もまだsickびょうきです。ぼくは「いやだなあill sick!! あそべないし!! 「そして…ちゅうしゃもしていましている<(←ママ)>。ちゅうしゃのなまえは[penisilin]<(←penicillinの誤り)>と[vitamin]であります。そしてのみぐすり<は>[vitamin]だけです。penisilinはveryいたいので、おしりがbaquhatuをするかとおもいました。myちゅうしゃをno goodだとsaysしました。もしill sickがなおったとしてもschoolへgoはiyaだしmy<(meの誤り)>は<病気も学校も>どっちもいやだし、どっちからもでんりゅうでひっぱられているようなkiがします。さてどうなるであろう!!→じごう じごう いかじごう<(以下次号)>
これからはえいごでにっきをかくようになります
では、さようなら<(←でも、英語日記になることはついになかったようだ。)>
・1956.8.8
August 8月8日水よう日 はれ<(←この日、日記が再開されたのは、マナーハウスが夏休みに入り、ようやく心身ともに健康を取り戻した、ということなのだろう。)>
エジプトはなつになるとあつくてしょうがありません。ぼくは月よう日からsummer schoolにいくようになりました<(←サマースクールについては全く記憶が失われている。)>。そしてきょうも学校へいきました。・・・
・1956.8.10
8月12日 てんき晴 土よう日
・・・はやいとこめをさましピアノにかかりえいごにかかり・・・やがて・・・プールへ・・・いくじかんになりました。・・・
僕のかえりたい日本にか<え>るのは、いつだろう。<(←ピアノ、お勉強、プールと忙しいことだ。そしてやっぱりたまにはホームシックにもかかっていたようだ。)>
10月7日 日曜日 天気 晴
今日学校はお休みです。なつ休みがおわってこんどは[gezira preparatory school]にかわりました<(私は、5月中にゲジラに転校したと思い込んでいたのだが、違っていた!)>。gezira schoolはたのしい学校です。なぜというとかね井さん<(←お父さんはJETRO勤務。私より年上が2人、年下が1人の子供がおり、彼らは私の一番の遊び相手だった。一番上は女の子で、現在は日本のランバン
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%90%E3%83%B3
の社長をしている。)>の家の子どもたちがきているからです。でもその学校は今は休みなのです。僕は朝おきてごはんをたべましたが、お父さまは[Alexandria]へ朝(7じはん)でかけたのです。今朝ごはんを、たべているのはお母さまとボク二人だけです。ごはんがすんで休んでピアノのレッスンにいきました。そして今いたところは「ホテルルンシャン」という「ホテル」<(←下出のマンションのすぐ近く)>なのです。ピアノのおいてあるところはあたらしいうち<(←マンションの最上階だったと思う。)>なのです。まだあたらしいうちにはでん気がついていないのですめないのです。もし今がダメだとすれば、もう、くらくてぜんぜんピアノなんてひけません。でも、今は朝なのです。だからピアノがひけます。一じかんはんぐらいピアノのおけいこをして、かえりました。それからねて<(←地中海地方じゃ昼寝をみんながとる。)>一じかんぐらいたった時僕はおきてかねいさんのうちへあそびにいったけど、みんないないでるすでした。しかたなくホテル<ルンシャン>へかえってねてにっきをかいてピアノのおけいこにいきました<(←これは一体どこじゃ? いずれにせよ、この頃、ピアノを相当熱心にやっていたことがうかがえる。)>。
(折にふれて続く・・かも?)
エジプト日記抄
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