太田述正コラム#0129(2003.6.25)
<アングロサクソンと欧州――両文明の対立再訪(その3)>
(前回のコラムの通し番号を付け間違えました。#127ではなく、#128に訂正させていただきます。)
それではジョセフ・デュ・トロンブレー(以下、「ジョセフ」という)について、ハックスレーが1941年に上梓した ‘Grey Eminence, A Study in Religion and Politics,(灰色の猊下――宗教と政治の一研究。ただし、出版社による表紙の副題はA biography of Father Joseph, the right hand man and collaborator of Cardinal Richelieu(リシュリュー枢機卿の右腕にして協力者であったジョセフ神父の伝記)), Harper & Brothers, 1941’ を主として参照しながらご紹介することにしましょう。(以下、特に断らない限りはこの本による。)
(ハックスレーの著作の邦訳は、エッセーが「永遠の哲学(久遠の真理。究極のリアリティー。The perennial philosophy)」、「科学・自由・平和」、「作家と読者」、「猿と本質(猿とエッセンス)」、「思想と遍歴」、小説は長編が「ガザに盲いて(Eyeless in Gaza)」、「すばらしい新世界」、短編が「島」、「神童、臙脂、ヒューバートと初恋(Young Archimedes and other stories)」、「ジョコンダの微笑(ジオコンダの微笑)」、「尼僧と昼食」、「安静療養」、「ティロットソンの晩餐会」、「半休日」、童話が「からすのかーさんへびたいじ(The crows of pearblossom)」、と全部で15篇にも及んでいる(http://opac.ndl.go.jp/Process。6月24日アクセス)というのに、このハックスレーの大作(伝記)が翻訳どころか、抄訳すらされていないのは理解に苦しみます。(近々ご紹介する予定の、フランス人貴族Astolphe de Custine による1839年のロシア旅行記、 La Russie en 1839 も、およそこの書を知らずしてロシア/ソ連論を展開することはできないというくらい有名であるにもかかわらず、翻訳が出ていません。翻訳大国日本も、随分とえり好みが激しいものですね。))
ハックスレーは、ジョセフの歩んだ道は、「遠く、1914年8月<(第一次世界大戦)>と1939年9月<(第二次世界大戦)>へと至っている。今日の世界を過去と結ぶ犯罪と狂気の長い連鎖の中で致命的に重要な結節点となったのが<17世紀の>30年戦争だ。この結節点を形成するために働いた人々は少なくない。しかし、リシュリューの協力者であったフランソワ・ルクラーク・デュ・トロンブレー・・宗教界ではパリのジョセフ神父、逸話史においては灰色の猊下として知られた・・ほど懸命に働いた人物はいない。・・もし彼が権力政治のゲームに長けていただけであれば、ジョセフ神父を彼の同時代人の中でことさらとりあげることにはならなかっただろう。・・彼が神の国の王国の市民でもあった<ことが問題なのだ。>」(PP18)と彼の執筆理由を述べています。
読者の皆さんもこの本の(出版社がつけた)副題を見てお気づきになったと思いますが、主人公のジョセフ(1577-1638年)は「神父」であり、リシュリュー(1585-1642年)は「枢機卿」でした。フランス国王ルイ13世の第一補佐者が宰相であるリシュリューであり、そのまた第一補佐者が外相格のジョセフなのですが、この二人がどちらもカトリックの僧職にあったということです。
もっとも、リシュリューの方は「伝統的」なカトリックの生臭坊主だったのに対し、ジョセフ神父は敬虔なカプチン僧でした。カプチン派は16世紀の反宗教改革の一環として、フランシスコ修道会の再生運動の中から生まれた一派であり、清貧と厳しい戒律で有名です。(カプチン僧共通の着古した灰色の僧衣を身にまとっていたことから、ジョセフが灰色の猊下と呼ばれたわけです。)(PP51)ハックスレーは、こういった連中が権力を握ることほど恐ろしいことはない(PP53)と指摘した上で、さしずめ現代におけるカプチン僧は、共産党員ではないかと言っています(PP54)。
ジョセフは、ボシェ(Bossuet。1627??1704年)の王権神授説(http://www.newadvent.org/cathen/02698b.htm。6月25日アクセス)を先取りしたような信念を抱いていました。「フランスは摂理の担い手(Instrument of Providence)であり、フランスが偉大であることこそが摂理なのだ」から、「要請に応えて国王と国家のために政治に携わることは・・まこと神の意志であり・・義務なのだ」(PP169)という信念です。
その神がキリスト教の神であり、カトリックの神であることはジョセフにとっては自明なことでした。ですから、彼がプロテスタントを欧州の獅子身中の虫と見るとともに、異教イスラム教を奉じ、キリスト教世界である欧州を脅かしていたオスマントルコへの敵愾心を燃やすのは当然でした。
事実、ジョセフの生涯の夢は(欧州内でのプロテスタントとの相克を克服し、)オスマントルコに滅ぼされた東ローマ帝国の皇帝の子孫であるフランスのナヴェール(Navers)公(パレオロガス家)を総大将とする十字軍をオスマントルコ打倒のために派遣することでした(PP144)。1617年に彼は時の法王の了承を取り付けた上で、翌1618年には自らスペインにまで赴き、スペインのハプスブルグ王室・・時のフランス王ルイ13世の妃の実家でもあった・・に十字軍参加を促しています。しかし、過去の十字軍同様、今回もそれがフランス主導の下で行われることを当然視するジョゼフに対し、スペインが首を縦には振ることはついにありませんでした(PP132-146)。
ジョゼフがスペインに赴いた1618年に、長年月にわたって続くとは誰もが夢にも思わなかった30年戦争が神聖ローマ帝国を舞台に始まります。カトリックとプロテスタントの争いに名を借りた権力争いです。
最初のうちこそジョゼフは、ドイツのプロテスタント諸侯の側ではなくカトリックである皇帝(オーストリアハプスブルグ家)の側に立ちました。しかし、フランス王室こそ王権を神授された最も正統的なキリスト教=カトリックの国王であるとの前述の信念の下、ハプスブルグ家の欧州における覇権確立への警戒心と、ハプスブルグ家が対オスマントルコ十字軍の話に消極的であったことへの失望感から、ジョゼフは次第にプロテスタント寄りの姿勢をとることになります。これは法王の意向に沿うものでもありました。イタリアの法王領の領主として、歴代法王はイタリアに食指を伸ばすハプスブルグ家に対して反感を抱いていたからです(PP145)。
その一方で、フランスの国内を固めるため、彼はフランスのユグノー(プロテスタント)地域の弾圧を敢行します。(ジョセフの名誉のために付け加えれば、これはあくまで国内における王室の主権の確立のために行ったものであり、強制された信仰は真の信仰ではないとし、彼はユグノーをカトリックに強制改宗しようとはしませんでした。)(PP159)。
(これらのジョセフの政策の行き着く先とその悲劇的結末は次回に。)