太田述正コラム#5696(2012.9.1)
<権威・権力・富の担い手と歴史(その3)>(2012.12.17公開)
「・・・他方、西欧では、「その全てが合理的なる賢人テクノクラートによって組織されたところの、勤労者、ソフトな商人、そして(キリスト教民主主義の場合には)家父長的貴族、の[利害]をバランスさせた、新しいカーストが1945年より後に鍛造された。
これは、数十年にわたる経済成長と社会的満足(contentment)をもたらした。
次いで、1970年代初期に、「商人たる戦士(merchant militant)」が政治生活の舞台の中央に復帰した。
経済学の専門家の中から新しい正統派(orthodoxy)が出現し、国家の後退(rollback)と税率の減少を促したのだ。
この「ネオ・リベラル」イデオロギーは、最初にアウグスト・ピノチェトのチリで、そのすぐ後でマーガレット・サッチャーの英国とロナルド・レーガンの米国で人気を博した。
それに引き続く何十年かで、このイデオロギーは世界のほとんどの場所で日の出の勢いとなった。・・・」(A)
「・・・商人カーストが大恐慌によって信用を無くしたとすれば、戦士カーストはその正統性を第二次世界大戦の大災厄の後に失った。
そして、しばらくの間、社会民主的モデルが安定と進歩を提供した。
しかし、この賢人的統治にもまたトラブルが生じた。
その官僚的退屈さと選良主義が、女性、若者、少数派と「1960年代クリエイティヴ(1960s creatives)」<(注)>を遠ざけ、また、1973~74年の全球的な巨大な石油価格高騰の後に襲った経済的危機をコントロールするのに失敗したことが、その管理者たる資格(managerial claims)を破壊した。
(注)1960年代中ごろから末にかけて出現した、マディソン街の1960年代「反文化創見」(The 1960s “Countercultural Creative” on Madison Avenue)
http://mountsaintvincent.academia.edu/CynthiaMeyers/Papers/671606/Psychedelics_and_the_Advertising_Man_The_1960s_Countercultural_Creative_on_Madison_Avenue
のことか。
なお、マジソン街は、「ニューヨーク市のマンハッタン区を南北に通じる街路<であって、>広告業が集中する。」
http://www.weblio.jp/content/%E3%83%9E%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%BD%E3%83%B3%E8%A1%97
これにより、商人カーストが再びしゃしゃり出ることが可能になったのだが、彼らは20世紀末をめがけて徹底的にしゃしゃり出るに至った。
今日では、商人カーストは、欧米では<他のカーストを押しのけて、>単独で統治している、とプリーストランドは言う。
見渡してご覧あれ。あらゆるところで彼らは取り仕切っている<ことが分かるだろう>。
英国ではマーガレット・サッチャーがビジネスの諸価値を政府の核心に持ち込み、この諸価値はそこにとどまったまま現在に至っている。
米国では、アラン・グリーンスパンの連邦準備制度がとめどのない金融拡大の時代を開いた。
ロシアでは、共産主義の崩壊が、飛び入り参加自由の資本主義的競争への道を開いた結果、少数者が巨大な財産を築き、多数が生活水準の崩壊で苦しんだ。
<世界の>あらゆる所で、労働組合は打ち負かされ、公共部門は攻撃されて縮小し、その残された部分は、商業的諸価値に従属させられた。
(プリーストランドによると戦士だが、ジョージ・ブッシュ大統領の眼からは賢人的狂信者である)オサマ・ビンラディンに率いられたイスラム教テロリスト達による、ニューヨークのツイン・タワーの破壊は、米国防長官のドナルド・ラムズフェルドによって粗々代表されるところの、戦士エートスの再勃興を促した。
(ラムズフェルトは、侵攻開始前に、「イラクでことを起こさなければならない」と言った。
「アフガニスタンには標的が十分ない。いいかい、我々は、でっかくて強いのであって、こんな類いの攻撃によって小突き回されるようなことがない、ということを証明するためには、何か別のものを爆撃する必要がある」と。)
しかし、対イラク戦争の自明であるところの無茶苦茶さ(pointlessness)とそれに人的・政治的・財政的にかかった巨大な費用は、<解き放たれた>戦士エートス<という鬼>をそのもとの箱の中へと押し戻した。
<ただし、>商人統治の帰結が目を見張るほどひどかったところの、ロシアだけでは、戦士カーストが、ウラディミール・プーチンという形で権力の座に戻っている。・・・
・・・1930年代の例をひきながら、プリーストランドは、「2008年という年は、世界を潜在的紛争をめがけたコースに向けて設定し、1930年代と1940年代において我々に暴力をもたらした国内的及び国際的の種々の力が今日我々とともにある・・特に、明確により少なく軍国主義的ではあるものの、ナショナリズムと商人の力の綜合という点において、カイゼルのドイツと極めて類似している中共が・・、と暗い警告を発する。・・・」(B)
3 終わりに
このような、単純なマクロ的史観は、(私自身のアングロサクソン・欧州文明せめぎ合い論や日本における縄文モード・弥生モード交替論をここで引き合いに出すことは控えるとして、)マルクスの階級闘争史観やヴェーバーのエートス転轍手史観同様、決して馬鹿にはできません。
歴史なんて、大衆を含む人間の集団が形成してきた以上、それほど複雑な原理で動いてきたはずがないからです。
いずれにせよ、なるほど、そういう史観もありうるな、と多くの人々に思わせることができたらいいのです。
プリーストランドの史観は、主として欧米を念頭におきつつ、中世以降だけを対象としているという意味では「狭い」史観ですが、一定の評価はできる、と私は思います。
このシリーズの表題が、プリーストランド自身の使っている言葉とは若干ズレがあることに気付かれた方もいらっしゃるでしょうが、私は、日本の江戸時代の統治が、当時としては極めて優れたものであったことが、プリーストランドの史観を援用することで裏付けられた、と感じたので、彼の史観を肯定的に評価しています。
すなわち、日本の江戸時代においては、これまでしばしば私が指摘したように、権威・権力・富の主たる担い手たる、それぞれ、公家(賢人)・武士(戦士)・商人のうちの一つが力を独占することなく、力が分散されていたわけですが、このような社会体制は、まことにもって合理的なものであった、ということです。
また、戦後日本の最大の問題点が、賢人(選良)養成制度の不備、及び、より深刻であるところの、戦士の不在、にあることもプリーストランドの史観から導き出されるところです。
(完)
権威・権力・富の担い手と歴史(その3)
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