太田述正コラム#5714(2012.9.10)
<いしゐのぞむ『尖閣釣魚列島漢文史料』を読む(その2)>(2012.12.26公開)
3 史料その二
今回も、史料そのものは引用せず、外交部ネットページと馬英九が、それぞれこの史料を引用している箇所をご紹介します。
なお、今回は、固有名詞を除き、すべて、現代仮名遣い、新字体に変えました。
「外交部ネットページ・・・(平成23年12月6日掲載)に曰く、
乾隆12年(1747年)范成「重修臺灣府志」及び乾隆29年(1764年)余文儀「續修臺灣府志」はともに黄叔○<(王篇に敬)>の記載全文を転載している。更に同治10年(西暦1871年)陳壽祺の「重纂福建通志」の記載は釣魚台嶼を「巻八十六・海防・各縣の衝要」に明らかに掲載し、同時に△(口偏に葛)▽(王偏に馬)蘭廰(今の宜蘭県)の管轄に列している。地方志の「史を存し、治に資し、教へ化す」という性質から言えば、清代の地方志の書中の水軍が釣魚台に巡航停泊した記載は、歴史記録であるのみならず、また、清代の不断に持続して主権を行使していた根拠と表徴である。釣魚台が△(口偏に葛)▽(王偏に馬)蘭廰の要衝であり、そこに管轄され、台湾の一部分であることを充分に証明できる。釣魚台は海防の巡邏点であるのみならず、また台湾の行政区画に入れられており、中国が有効に管轄していたことを表している。」(240)
馬英九「釣魚台問題簡析」(黄兆強編「釣魚臺列嶼之歴史發展法律地位」3~15頁、2004年東呉大學発行)に曰く、御史黄叔○<(王篇に敬)>が台湾を巡視して書いた「臺灣使槎録」巻二「武備」はまさしく釣魚台に言及する。書中に言う。「山後の大洋の北に、山有りて釣魚台と名づけらる、大船十余を泊すべし」と。換言すればこの時台湾の水師(すなわち現在の海軍)は恒常的に船を派遣して釣魚台を巡邏しており、且つ非常に明瞭に記載している。この史料は後の海防の文献にずっと転録され続け、我が方の最有力の証拠の一つだと私は考える。なぜならもし領土でないならば長期にわたって海防巡邏点に列することが有り得ようか。」(240~241)
以下、いしゐさんによる解説です。
「「各縣衝要」の条であるから、その記載は全て清朝の版図の軍事拠点なるかの如くである。もしそうであるならば釣魚台も薜坡蘭(花蓮)も清朝の軍事拠点だということになる。しかしこの書の成った道光年間に△(口偏に葛)▽(王偏に馬)蘭廰は蘇澳港までが統治域南端であり、その南の薜坡蘭はまだ清朝の版図に入っていなかった。この条は版図の外の記録を含むということである。
→この箇所は典拠が不可欠だと思いますが、付いていません。(太田)
蘇澳港についても「大舟を容るべし」(停泊可能)と述べるだけで、南端の僻地であるから現在のように大船が集まってゐたわけではない。まして本条末尾の釣魚台・薜坡蘭は、版図外のについての記載を黄叔○<(王篇に敬)>「臺海使槎録」から抄録したに過ぎない。蘇澳自体が「山後」の大洋に面していながら更に「後山大洋」と述べるのは、理解せず卒爾に抄録した痕跡である。
→最後のセンテンスについてですが、もう少し詳細に説明していただかないと、意味がよく分かりません。(太田)
千艘という有り得ない隻数になっているのも単なる校刻の誤りではなく、釣魚台が何であるか理解していないがゆえだろう。「臺海使槎録」・・・に較べて「港深」の二字が付加されているのは、付加者が湾の深さを知っていたことを示す。もちろん釣魚台航路を熟知する琉球人が深さの認識を福建側にもたらしていた可能性は高いが、記録は無い。今「港深」の二字に引きずられて、「千艘」としたとすれば誤刻ではなく誤認である。蘇澳のような天然の良港ですら大舟の隻数を言わないのに、遠く小さな釣魚台に十隻乃至千隻とは、どの程度の真実性かと疑われる。外交部声明の「范成」(はんせい)は乾隆年間の巡臺御史「范咸」(はんかん)である。」(241)
→最後のセンテンスについても典拠を示された方がよろしいと思います。
なお、読みを記されるのなら、漢語・・いつの時代のどの地域の読みを採用するのかという問題がありそうですが・・での読みを記された方がよかったのではないでしょうか。
それにしても、ご指摘の通りだとすると、台湾の外交部、杜撰ですね。(太田)
4 終わりに
繰り返しになりますが、いしゐさんの主張は、(もう少し説明や典拠を補っていただければ、という条件付きですが、)強い説得力があります。
これも繰り返しになりますが、台湾外交部等による反論があったら、ぜひご教示ください。
改めて、御著書の提供に感謝申し上げます。
追記:一般の読者の方は、本書の10頁と11頁に掲げてある地図がご覧になれないので分かりにくかったと思いますが、あしからず。
(完)
いしゐのぞむ『尖閣釣魚列島漢文史料』を読む(その2)
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