太田述正コラム#0132(2003.7.26)
<またまた北京訪問記(その1)>

 7月19日から25日まで、北京に行って来ました。夜に着いて朝発って来たので、実質5日間ですが、それまでの三回の北京訪問の中では最も長い滞在ということになります。
 最初に「周辺的な」感想を述べたいと思います。

 第一に北京市に関しては、豊かさが一般市民レベルまで及んできているなということです。
マクドナルドの店舗が北京だけで100カ所を越したらしいのですが、どこも満員の盛況です。私が二カ所で食べたビッグマックは一個10元(140円程度)で、日本の半分程度のお値段だとは言っても、日本と中国の所得の違いを考えれば大変高い・・れっきとした飲食店での朝食が4??5元で食べられる・・にもかかわらず、大人気なのです。きっとマクドナルドは、北京市民にとって夢の国アメリカ、或いは未来を象徴する存在なのでしょう。
しかも、中国の経済発展のスピードは加速度的にあがってきています。今まで経験しなかったことですが、空港ビルの外でも、王府井でも、歩いていると名刺大の広告ビラをあちこちで手渡されました。やがては、日本でのようにティッシューペーパーに織り込んだ形で渡すようになるのでしょうか。
その一方で、初めて乞食を目にしました。王府井で、それぞれ一人の子供を連れた男性と女性が、道を挟んで斜めの位置に座り込んで、通行人に物乞いをしていたのです。私にはこれはニッチをねらった一種のベンチャービジネスに思えたことでした。

 第二に、北京市民はその豊かさの代償を早くも公害という形で支払っているということです。
 私の北京滞在中、一度も太陽や青空を拝することができませんでした。本当に曇っている日もあったのでしょうが、晴れなのか曇りなのかも定かでない、けぶったような毎日ばかりだったのです。北京の交通機関は、二本の地下鉄(現在三本目を工事中)と自転車を除けば自動車だけであるため、排気ガスが空中に充満しているからでしょう。(北京は周辺を山で囲まれています。)このため、このところ北京を訪問するたびに私のアレルギーが発症して、鼻は腫れるは目は痛くなるはでさんざんな思いをさせられています。ところが、北京の人々はこのことを殆ど気にしていない。そのことがいつも私を暗然たる思いにさせるのです。

 もっと心配になったのは、第三に、思想、集会の自由に依然厳しい制約が課されていることです。結局は共産党による一党独裁が原因ということになるわけですが、制約とは具体的には次のようなことです。
ア 公園がない・・普通の国の都市にはどこにもある、無料で市民が憩い、集うことができる公園が北京にはない。
イ 集会場がない・・教会や寺院に信者以外が自由に出入りすることができない。(王府井のキリスト教教会からの類推。)市民が自由に低い賃料で時間借りができる会議室やホールのようなものもなさそう。
ウ 喫茶店がない・・中国茶を飲ませる店はあり、増えているというが、なかなか格式が高く、気軽に入れる雰囲気ではない。マクドナルドやスターバックスはあるし、増えつつあるが、落ち着いて語り合えるような雰囲気では必ずしもないことはご承知の通り。もっとも、この点は変わりうるのかもしれない。
エ 情報統制がある・・新聞・雑誌・書籍に検閲制度がある。テレビもケーブルテレビしか(少なくとも北京では)認められていない。洋書について、非マルクス主義社会科学書や歴史書を中心に輸入規制がある。ホームページのブラウジングが自由にできない(例えば、ポルノはもとより、台湾のサイトも一切閲覧できない。そのほかにも閲覧できないサイトがある)。
 中国経済の急速な発展は、先進国からのコンセプトや技術の導入によってもたらされましたが、やがては自前のコンセプト作りや新技術の創出なくしては経済発展ができなくなります。しかし、このように自由が制約されていては、中国から画期的な新しいコンセプトや技術が生まれるとは思えません。中国は、既に触れた環境上の制約のほか、エネルギー確保上等の制約に直面するよりも早く、この創造性の制約に直面することは必至であり、その時期は目前に迫っているという気がしてならないのです。

 第四に、中国における歴史への無関心です。
 歴史への無関心というのは第三と関連するのですが、こういうことです。
今回、会う人ごとに、明の永楽帝が行わせた鄭和の大遠征に関してイギリス人のアマチュア学者が本を書き、その中で打ち出した新説・・鄭和の艦隊がコロンブスより早く新大陸を発見し、マゼランより早く世界一周をなしとげており、コロンブスやマゼランは鄭和のつくった海図をもとに新大陸を「発見」し、世界一周を「なしとげた」という説・・を話題にしてみたのですが、誰一人この話を知らなかったのにはびっくりしました。
昨年前半、英国や米国のマスコミで大きな話題になったというのに、中国内では報道されなかったか、報道されても話題にならなかったとみえます(帰国してから調べてみたところ、人民日報の電子版の英語バージョンで昨年の3月6日に報道がなされていました(http://english.peopledaily.com.cn/200203/06/eng20020306_91553.shtml)。ですから、人民日報の本紙でも報道されたと思われます。)
また、私の会った人には国際関係論を専攻している学者が多かったのですが、彼らは外国の文献や新聞等を読むのが商売だというのに、自分の狭い専攻領域以外の本や記事については、たとえそれが中国にとって大きな意味を持つものであろうと、一切関心を持たず、従って読まないということにもなりそうです。
これは極めて問題ではないかと思いました。
なぜならこれは、中国の国際交流関係者や国際関係論の研究者等のインテリ達が、中国共産党の歴史観(注)をひきずっており、中国の過去の歴史の一切を否定的に見ているということを意味するからです。およそ歴史を振り返ることなくして未来を思い描くことはできないというのに・・。

(注)今回訪問した、天安門広場に面した国家博物館内の蝋人形館には35名の中国史上の偉人達が展示されていますが、そのうち、清末期以降以前からは、政治家はゼロ、革命家は当然ゼロ、模範人物も当然ゼロ、そしてわずかに文化人14名中孔子、司馬遷、李白、李時珍(医学)、曹雪芹の5名。つまり、全中国史中、清末期までのウェートはわずか七分の一というわけです。中国共産党の歴史観躍如たるものがあります。

中国史における最大の問題は、春秋戦国時代から明の時代に至るまで、日本や西側世界に大きな影響を与えるような思想(孫子等)や科学技術(火薬、印刷、羅針盤等)などを生み出し続けてきた創造性豊かな中国の近現代における創造性の枯渇だと私は考えています。

(注)中国で発明されたものの例(資料源はいずれも8月9日アクセス)
火薬→3世紀頃(http://homepage1.nifty.com/forty-sixer/insatu.htm
火薬を用いた兵器→975年まで(http://www.bekkoame.ne.jp/~feob/kaidou/tanegasima/kayaku.htm
紙→蔡倫が105年(http://www.hkd.meti.go.jp/hokig/student/j01/cont.html
印刷(木版)→6世紀(http://www.editor.co.jp/press/ISBN/ISBN4-88888-295-9.htm
活字→陶製活字(膠泥使用)は畢昇が11世紀半ば、木製活字は王禎が13世紀末(http://www.honco.net/japanese/01/page3-j.html
  羅針盤→11世紀まで(http://www.hkd.meti.go.jp/hokig/student/j01/cont.html

この問題への取り組みなくして、中国が今後直面するであろう創造性の制約の突破に成功することはありえないのではないでしょうか。
そのような観点からすると、鄭和に関する新説に関心を持たない現代中国のインテリ達の態度が私には理解できません。仮に上記の新説が正しければ、外の世界に向けて開放的であった永楽帝の時代に明は従来考えられてきた以上に世界に大きな貢献を行ったにことになりますが、にもかかわらず帝の死後明は急速に内向きになり、鄭和の遠征の成果は中国では全く顧みられることがなくなってしまということになります。このように中国史上の最大の問題を凝縮しているような史実を前にして、インテリ達が知識欲をかきたてられないこと自体が問題なのです。

第五に、これも第三と関連するのですが、身近な事実への無関心です。
世界遺産の一つである明の十三陵のうちの最大の定陵(第14代の万暦帝の墓)を今回訪れたところ、地下の玄室に並ぶ帝と二人の皇后の巨大な棺桶の前に、それぞれお金が山盛り状態になっており、よく見てみると人々がお金を投げてから合掌し頭を垂れて祈っているではありませんか。
別段万暦帝(1562-1620)が特に強大な皇帝であったわけではありませんし、善政を敷いたわけでもありません。それどころか、彼の48年間に及ぶ長い治世に問題があったからこそ、彼の死後24年目に明は滅亡してしまうのです。にもかかわらず、中国の民衆の多くは、亡くなって久しいこの皇帝(の遺骸)が霊験あらたかであると信じているということになります。
ところが、今回同じく世界遺産である天壇公園を訪れたときのことです。天壇とは、明の永楽帝が建設した、神々に豊穣を祈るための祭壇なのですが、いくつもお宮があり、その中に神の名前を記した位牌型のお札が納められています(Li Yuanlong, Temple of Heaven, Morning Glory Publishers Beijing, 1999)。その神前にお金は全く供えられておらず、祈っている人もいませんでした。
一体この違いはどうしてなのか、これまた、会う人会う人に訪ねてみたのですが、誰も答えられません。それどころか、いかにも興味なさそうな顔をして話を逸らしてしまう人が何人かいました。その中には哲学を専攻している学者もいました。
民衆の宗教感情、より一般的には精神構造に関心を持たないインテリとは一体何なのでしょうか。

第四で紹介したことと言い、このことと言い、これでは第三の状況をインテリが打破していくことができるとは到底思えないのです。
 訪中を終え私は、現代中国のインテリ達が自ら積極的に意識改革を行っていくかどうかを注視していきたいと思っています。
(続く)