太田述正コラム#5722(2012.9.14)
<米帝国主義マークIIとその崩壊(その1)>(2012.12.30公開)
1 始めに
表記に関わる、興味深い、バリー・C・リン(BARRY C. LYNN)の論考 ’Why the pivot to Asia has no clothes.’
http://www.foreignpolicy.com/articles/2012/09/11/industrial_revolution?page=full
(9月12日アクセス)のさわりをご紹介し、私のコメントを付したいと思います。
なお、リンは、コロンビア大卒の米国人たるジャーナリスト・著述家で、APとAFPでの記者を含む様々な職業を経験し、FT、フォーブス誌、ハーヴァード・ビジネス・レビュー等に寄稿している人物です。
http://en.wikipedia.org/wiki/Barry_C._Lynn
なお、米帝国主義マークIとII(私の命名)についての基本的な話は、ここでは繰り返しません。
2 米帝国主義マークII
「・・・1940年代末から1950年代初における、恐ろしくかつ意気消沈させられる諸課題は、ドイツと日本の産業を、その力を再び向う見ずな軍事的冒険を行うために使うことを防止しつつ、再出発させることだった。
欧州では、その結果は石炭鉄鋼共同体(the Coal and Steel Community)であり、これでもって、ドイツの産業はフランスのそれに緊密に結び付けられた。
アジアでは、その結果は、米国の市場の大きな分野を日本企業の産業製品に譲ることで、日本の産業上の利害を米国のそれと緊密に結び付けることだった。
→リンは戦後日本に関して大仰に書いていますが、要は、戦後、米国は国内市場を開放した、というだけのことでしょう。
大恐慌の時には国内市場保護のために日本を含む外国の製品を閉め出し、先の大戦前には日本への戦略物資の輸出を禁止するという事実上の対日宣戦布告を行った米国が、この間、一貫して(戦後同様に)その国内市場を開放してくれていたならば、と痛切に思わざるをえません。(太田)
それは、我々の同盟諸国の産業能力を発展させ、次いで、人々の間での生産的な協力を強いるために企図されたところの、それら<諸国>の互いに遠くにある夥しい工場群を国境を超えた複雑なネットワークへと織りなして行く、というアイディアだった。
これらの日々においては、国際関係論のエキスパート達は、「ハード」パワー、すなわち軍事力、と外交のような「ソフト」パワーとを、しばしば区別した。
第二次世界大戦後の時代においては、米国政府の政策決定者達は、少なくとも4つの異なった分野にまたがった国家の力を注意深く調整して<外国に>投入した。
<すなわち、>軍事力に加えて、彼らは、イデオロギーと情報(information)、金融政策と財政、そして供給と生産、を操作したのだ。
時には、その狙いは、<米>私的企業をして、特定の同盟国と何か産業技術(art)を共有するよう強いることだった。
ある古典的な例だが、米国政府が台湾の生まれたばかりのラジオ産業にテクノロジーと機械群の両方を移転するように米国の会社群に強いた。
もう一つだが、米国政府が日本にテレビに関するテクノロジー群を移転するのを助けた事例がある。
→典拠があげられていないので、自国内における直截的な産業政策を、少なくとも戦後においては峻拒し続けた歴代米国政府が、こんな類いの直截的な対外的産業政策を実施したとはにわかに信じられません。
単に、戦後直後においては、台湾や日本の企業を米国の企業があなどっていて、比較的気前よく有償技術移転が行われた、ということではないのでしょうか。(太田)
その一方で、米国政府が特定の同盟国に直接力を用いた場合もある。
最も劇的な例は、1956年に、アイゼンハワー政権が英仏がスエズ運河のコントロール権を簒奪しようと試みたのを止めさせたものだ。
米国は、軍事介入するぞと脅したわけではなく、英ポンドを破滅させ、両国に対する石油供給の流れを断つとおどしたのだ。
→これが、大変な愚行であったことは、以前指摘したところです(コラム#省略)。(太田)
この戦後「全球化」の最初の時代の間には、どれだけ個々の国が産業的特化をすることを受容したり期待したりできるかについて、厳然たる上限が存在していた。
すなわち、米国政府は、気前よく(liberally)、日本、ドイツ、その他の国々からの自国への輸出を歓迎しつつも、米国人達が基本的な産業テクノロジー群を引き続き把握(understand)し続けるべく、米企業群が死活的な産業諸活動の全てにおいて競争力を維持し続けることを確保しようとしたのだ。
→ここも、単に、米国が、当時、あらゆる主要産業テクノロジーにおいて、他国と比較して、顕著に優位にあった、というだけのことのような気がします。(太田)
他方、<米国にとって>鍵となる交易相手国群は、特定の産業群に関して高度の自治を要求したが、それに対して米国政府が異を唱えることはほとんどなかった。
その結果、諸国は、おおむね、自国で、重機械、自動車、国防物資、化学製品、そして食糧の生産を続けた。
→前に述べたことと重なる部分がありますが、米国にそれを許すだけの余裕があった、というだけのことでないでしょうか。(太田)
その結果として生じたところの、このような、産業能力と産業所有権の幅広い分散(distribution)は、米国とその他の産業諸国において、当時、強力な反独占諸法が執行されていたという事実によって補強されていた。
そして、それは、当時、「垂直統合された」産業企業群の間で共通していたところの、部品を外部のサプライヤーではなく自社が製造する、というやり方によって更に勢いをつけられていた。
→後付けの説明のような感じがします。(太田)
1989年にベルリンの壁が崩壊した時点では、この米帝国主義体制の第一世代が達成したものは、そのルール群が最初に確立した頃の、大部分の人々の想像を絶する域に達していた。
この体制の中において統合された諸国は、偉大で高度な民主主義的繁栄を享受したのだ。
より重要なことは、これら諸国が、広範かつ深化する平和を享受したことだ。
このことは、ライン川沿いの一千年にも及ぶ戦場に関し、特に驚くべきことだ。
→これは、米国の功績というより、20世紀中に大戦争の惨禍を2度も直接経験した欧州の人々自身のイニシアティヴの賜物でしょう。(太田)
しかも、これら諸国は、緩やかにしか互いに結びついていなかったので、失敗の余地が残されていた。
大企業や大銀行の破綻は、一般に、特定の国の経済にとっての脅威にしかならなかった。
諸問題は、連鎖を形成することなく、個々に洗い出され、匡されさえしたのだ。
(続く)
米帝国主義マークIIとその崩壊(その1)
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