太田述正コラム#5728(2012.9.17)
<地政学の再登場(その1)>(2013.1.2公開)
1 始めに
「地政」を超越するところの空軍が登場して以来、地政学はおよびではなくなった、というのが私の考えであることは長く太田コラムを読んでこられた方はご存知でしょうが、このたび、ロバート・D・カプラン(Robert D. Kaplan)(コラム#2555)が ‘The Revenge of Geography–: What the Map Tells Us About Coming Conflicts and the Battle Against Fate’ を上梓し、久方ぶりに 地政学の話題を米国で再登場させたので、さっそく、その書評等をもとに、この本を俎上に載せることにしました。
A:http://online.wsj.com/article /SB10000872396390443686004577633490631541260.html?mod=WSJ_Opinion_MIDDLETopOpinion
(書評。9月13日アクセス)
B:http://www.globalpeacesupport.com/2012/06/robert-d-kaplan-on-his- new-book-the-revenge-of-geography/
(本人によるこの本の紹介。9月17日アクセス)
C:http://nationalinterest.org/print/bookreview/the-revenge-kaplans- maps-7345
(書評。同上)
D:http://www.theamericanconservative.com/articles/the-map-to-power/
(同上)
E:http://www.rferl.org/content/robert-kaplan-geography-fate-nations /24704951.html
(本人へのインタビュー。同上)
カプランには、同名の2009年の論考(全文↓)
http://www.colorado.edu/geography/class_homepages/geog_4712_sum09/materials/Kaplan%202009%20Revenge%20of%20Geography.pdf
がありますが、恐らく、この論考を発展させて本にしたと思われます。
なお、カプランは、1952年生まれでコネティカット大学卒のユダヤ系米国人たるジャーナリストであり、イスラエル軍勤務や米国の新聞の海外記 者、米海軍兵学校客員教授等を経て、現在、米国のアトランティック・マンスリー誌 (Atlantic Monthly)の国内記者をしています。
クリントン大統領が、カプランの本を読んで、ボスニアへの軍事介入を決意したという話は有名です。
http://en.wikipedia.org/wiki/Robert_D._Kaplan
2 地政学の再登場
(1)序
「地理はあなどりがたい敵だ。
地理はナポレオンをロシアで、アレクサンドロスをインドで、カンビュセス(Cambyses)<(注1)>をサハラで、そして米国をベトナムで 破った。
(注1)カンビュセス2世(~BC522年)。「アケメネス朝ペルシア第2代の王(在位<BC>529年頃~<BC>522年)。キュロス2世 の息子。<エジプトに遠 征したカンビュセスは>ペルシウムの会戦においてエジプト軍<を>壊滅<させ>、その後まもなく<首都>メンフィスは陥落した。捕らえられた<エジプ ト国>王プサムテク3世は反乱を試みたが処刑された。・・・エジプトに続き、カンビュセスはクシュ(・・・現在のスーダンに位置した・・・大国・・・) の征服を試みた。しかし、カンビュセスの軍隊は砂漠を横断することができず、 深刻な敗北を喫して帰還を余儀なくされた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%83%93%E3%83%A5%E3%82%BB%E3%82%B92%E4%B8%96
巨大な距離と不慣れな環境が補給を妨げ、部隊の気力を奪ったのだ。
地理はスペインの無敵艦隊の多くを沈め、日本をモンゴルから守った。
しかし、地理は無敵ではない。
コルテスは、メキシコを征服するために原住民の協力者を募ることで地理を克服した。
その半世紀後、ムガール皇帝のアクバル(Akbar)<(注2)>は、テクノロジーを用いてラージプート(Rajput)<(注3)>のチット ルガール(Chittorgarh)の要塞を攻め、爆雷(explosive mine)でもってこの山上の城を崩した<(注4)>。
(注2)アクバル大帝(1542~1605年)。「ムガ<->ル帝国の第3代君主 (在位1556年~1605年)」。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%AF%E3%83%90%E3%83%AB
(注3)「ラージプートの語は、サンスクリット語の「王子」を意味する rajaputraから生まれた言葉で、この語は、11世紀以後、北イン ドや西部インド のヒンドゥー系の王侯、戦士集団のカースト名称として使用されるようになった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%97%E3%83%BC%E3%83%88
(注4)1567年にアクバルはムガール軍を率いてチットルガール要塞を包囲し、盛り土をしてその上に大砲と迫撃砲を据え、更に、爆雷を要塞の 石壁の下に埋めさせた上で、総攻撃を開始した。要塞は、包囲してから4か月目の翌1568 年に陥落した。
http://en.wikipedia.org/wiki/Akbar
ホセ・サン・マルティン(Jose San Martin)<(注5)は、恐るべき豪胆さでもってアンデス<山脈>を突破し、1817年にチリを解放した。
この本の中で、ロバート・カプランは、<地理に対する>尊敬と物とも思わぬ姿勢(defiance)との間の正しい均衡を求めようと試みる。・・・」(A)
(注5)1778~1850年。「アルゼンチンの軍人で政治家。南アメリカ各国をスペインから独立させるために活躍した。シモン・ボリーバルや、ホセ・アル ティーガスと並ぶ解放者として称えられている。・・・アルゼンチン<で>・・・スペイン系貴族であり、スペイン軍の軍人だった父の 子として生 まれる。7歳で家族とともにスペインに渡る。サン・マルティンは職業軍人とし ての道を進み、22年間スペイン軍で働いた。スペイン軍で は陸軍中佐まで昇進し、1811年にはスペイン軍の師団長にまでなったが、母国アルゼンチンでの独立 運動を耳にして、今まで築いた全ての地位を捨 てて帰国を決意する。・・・ 1817年初頭、亡命チリ人の独立指導者ベルナルド・オイヒンスらと共にメンドー サから出撃した北部軍は、スペイン軍の油断をついてアンデス山脈越えを行い、チャカブコの戦いに勝利。1月25日にサンティアゴに入城を果たす。チリの議会はサン・マルティンを執政官に選出したが、サン・マルティンはこの申し 出を断り、この戦いに協力したオイヒンスをチリの元首として指名した。その後 マイプーの戦いで再びスペイン軍を破ると、チリの最終的な独立が確定した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%82%BB%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%B3%EF%BC%9D%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%B3
「・・・今日においても、地理は、過去の歴史を通じてそうであったように、世界の出来事の最も強力な操縦者の一つなのだ。・・・
「・・・ある国家の地図上の位置は、その国を規定する最初の物であり、それはその国を支配している哲学より強力ですらある」<とカプランは言う。>
実際、カプランは、国家の地理的位置がしばしばその国を支配している哲学に影響を与えることを示唆する。
彼は、ロシアの領域的脆弱性がその国で「専制政治(tyranny)へのより大きな寛容」を大量に生み出した、との歴史家のG・パトリック・ マーチ(G. Patrick March)<(注6)>の言を引用する。
(注6)Cossacks of the Brotherhood (American University Studies Series IX, History) (1990年)、Eastern Destiny: Russia in Asia and the North Pacific(1996年)という著作がある。
http://www.amazon.com/G.-Patrick-March/e/B001KI5H8G
他方、英国は、「その境界内で安全であって、海洋的方向性を持っていたため、その隣人達よりも民主主義的制度を早く発展させることができた」と カプ ランは記す。・・・」(C)
(続く)
地政学の再登場(その1)
- 公開日: