太田述正コラム#5734(2012.9.20)
<地政学の再登場(その4)>(2013.1.5公開)
ウ アフガニスタン
「・・・アフガニスタンとパキスタンは同じ運命を分かち合っている。
というのも、アフガニスタンとパキスタンの間には実質的に自然境界が存在しないからだ。
確かに、アフガニスタンは、多かれ少なかれ、砂漠の高台の上に鎮座しているのに対し、パキスタンは湯気の立つ低地たるインダス河渓谷の里だ。
しかし、高台からインダス河への下降は極めて緩やかであり、実質的な明確な境界は存在しない。
・・・だから、この境界を巡羅するのは、まことにもって容易ではない。
そして、それに加えて、パシュトン人(Pashtun)<(注13)(コラム#561、636、680、2378、3238、3242、3269、3741、3749、4206、4307、4827、5118)>がいる。
境界の片側だけにではなく、両側に数多く住んでいるインド=イスラム系の人々であり、そのため、この境界は、一層人工的なものとなっている。
(注13)その居住地域が分る図。↓
http://en.wikipedia.org/wiki/File:Areas_pachtun.jpg
だから、いわゆる、パキスタンからアフガニスタンを分離し、二つのうまく機能する国家をつくる、という目標を達成するのは極めて困難なのだ。、
アフガニスタンとインド亜大陸の地図を眺めれば、実質的な境界は、アフガニスタンとパキスタンの辺境にではなく、アフガニスタンの真ん中にあることが目に入るだろう。
その境界とは、ヒンズークシュ(Hindu Kush)山脈<(注14)>だ。
(注14)「主にアフガニスタン国内を北東から南西に1200kmにわたって延びる山脈。一部はパキスタン西部にも広がる。」地図も参照できる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%B3%E3%83%89%E3%82%A5%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%A5%E5%B1%B1%E8%84%88
ヒンズークシュの北側にはタジク人とウズベク人がおり、南側にはパシュトン人がいる。<(注15)>
(注15)[主要民族](2003年推計)
パシュトゥーン人、45%、言語パシュトー語、宗教ハナフィー派スンニー
タジク人 32%、言語ダリー語、タジク語、宗教ハナフィー派スンニー、イスマイール派シーア(北部の若干)
ハザラ人 12%、言語ハザラギ語(ダリー方言)、イマーム派シーア、イスマイール派シーア、スンニー(極少数)
ウズベク人 9%、言語ウズベギ語、トルコ語方言、宗教ハナフィー派スンニー
トルクメン人、言語トルコ語方言、宗教ハナフィー派スンニー
[言語]
パシュトー語 30%
ダリー語(ペルシャ語) 55%以上 大体のアフガニスタン人は皆ダリー語(ペルシア語)を理解する。
テュルク諸語 11%
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%95%E3%82%AC%E3%83%8B%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3
北側、すなわち、北部アフガニスタンでは、タジク人、ウズベク人、そしてトルクメン人の間に多かれ少なかれ平和が保たれており、更に北のタジキスタンとウズベキスタンとの間で交易や人的接触が次第に密になってきている。
換言すれば、アフガニスタンの南部と東部が次第に境界の向こう側のパキスタン内のパシュトン人と混じり合うようになったとしても、一種の、大タジキスタンと大ウズベキスタンが将来、次第に形成されるかもしれないのだ。・・・」(E)
→ほんの少しでもアフガニスタンやパキスタンについて知っている人ならば思い至るであろう、陳腐な、と言って悪ければ、常識の域の言説です。(太田)
(4)カプランに対する批判
「・・・カプラン氏の歴史に係る一般論は、知識不足のくせに大胆過ぎる。
彼は、例えば、20世紀においては、「分裂した国・・・においては、統合への力が最終的には勝利を収める」と考えているが、かつてのチェコスロヴァキア、ユーゴスラヴィア、ソ連の住民達を驚かせることだろう。
<また、>彼は、ハーバート・アダムス・ギボンズ(Herbert Adams Gibbons)<(注16)>の断定である、「欧州のいかなる部分であれ、アジアから征服されることはない」を受け入れているが、明らかに、ゴート(Goths)<(注17)、フン、マジャール、ブルガル(Bulgars)<(注18)>、そしてモンゴルはそんな障害に気付いたふしはない。
(注16)1880~1934年。米国の著述家。
http://en.wikisource.org/wiki/Author:Herbert_Adams_Gibbons
著作リスト。
http://www.unz.org/Author/GibbonsHerbertAdams
(注17)ゲルマン人たるゴート人がどうしてアジア出身ということになるのかだが、彼らは、ドナウ河からボルガ河、そして黒海からバルト海、という広大な地域に居住するに至っていたからだ。そこへ、4世紀末にフン(匈奴)が東から侵攻して来たため、ゴート人の一部がドナウ河を渡って、ローマ帝国領内に侵入し、これを契機に、いわゆるゲルマン人の大移動が始まった。
http://en.wikipedia.org/wiki/Goths
(注18)「ブルガール人(Bulgar)は、・・・テュルク系遊牧民である。人種はかつてモンゴロイドに属していた。・・・
ブルガール人の先祖は2世紀頃にウラル山脈以西および中央アジア西部からヨーロッパ大陸の東部に姿をあらわし、カスピ海と黒海の間に広がる草原地帯で遊牧生活を送るようになった。一部はこの地域でフン人の西進に加わり、東ヨーロッパに移動した・・・
バルカン半島のドナウ川下流域からトラキア地方に侵入した一派はブルガリア帝国を建国、キリスト教の正教会信仰を取り入れ、先住の南スラヴ人に言語的に同化されて現在のブルガリア人の先祖となった。そのためプロト・ブルガリア人ともいう。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%AB%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%83%AB%E4%BA%BA
<また、>カプラン氏の地理に係る観念は古すぎる。
彼は、地理を、空間と地勢(topography)と、少しだけだが、緯度の組み合わせと見ているが、過去50年前後の環境科学の進展が彼の目に入っていないようだ。
エコロジーに由来するさまざまな洞察は、我々の過去の見方に革命を起こしつつあり、いかに戦争、経済、そして国家や文明の運命が、地球温暖化や冷却化、地域的気候システムの変動、地震による破壊、そして種の絶滅、といったことの影響をこうむってきたかを、歴史家達に認識させた。
今では、我々は、人類が、その一部であるところの、エコシステム群にはめ込まれていることを知っている。
我々は、自分達を、我々を取り巻く気候やその上を我々が移動するところの土壌や海、の文脈の下でのみ理解することができるのだ。
(続く)
地政学の再登場(その4)
- 公開日: