太田述正コラム#5774(2012.10.10)
<米国論再訪(その1)>(2013.1.25公開)
1 始めに
 昨日(10月9日)、米国の属性・・(楽観主義と表裏の関係にある)悲観主義(没落主義)と戦争志向・・を指摘する二つのコラム
http://www.foreignpolicy.com/articles/2012/10/08/declinism_is_america_and_mitt_can_too?page=full
http://www.latimes.com/news/opinion/commentary/la-oe-engelhardt-military-spending-20121009,0,7940071.story
を目にしたので、順番に取り上げたいと思います。
2 悲観主義
 「・・・米国には<楽観主義(optimism)の歴史があるが、>同時に悲観主義(pessimism)・・・<ないし>没落主義(declinism)の豊かな歴史もある。
 このことは、米国の没落への恐れが現在の大統領選挙の焦点の一つになった理由を説明するのに資する。・・・
 大陸会議が独立宣言を批准してから10年も経たないうちに、ジョン・アダムス(John Adams)<(注1)(コラム #91、503、504、518、896、1630、2079、2890、2897、3327、3329、3423、3654、3706、3802、4049、4303、4308)>は、米国の将来について悩み始めた。
 (注1)1735~1826年。(副大統領を経て)米第2代大統領:1797~1801年。ハーヴァード大卒、弁護士。「大統領としての任期の間、自身の連邦党(アレクサンダー・ハミルトンが率いる一派)内部での抗争と、新しく頭角を現したジェファーソン流共和主義者との党派抗争に悩まされることになった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%80%E3%83%A0%E3%82%BA
 1785年に、彼は、米国人達は、「極めて高貴な徳をもって成る独立宣言(Charter)に値したことはいまだかつてない」と嘆いた。
 友人達に向かって、彼は、「米国人のための特別な(大文字の)摂理(Providence)などない」ことを認めた。
 なぜなら、「彼らの本性は他国人達のそれと同じだからだ」と。
 彼は、このテーマを、1787年の論文であるところの、その中で過去の諸帝国の興隆(rise)と没落(fall)を検証した『アメリカ合衆国政府の憲法の擁護(A Defense of the Constitutions of Government of the United States of America)』において再訪した。
 「西」と「東」の諸帝国の崩壊の合間合間に、「大洋におけるかくも多数の水上竜巻のように爆散する」結果に終わったところの、「無数の共和国群」がイタリアで族生した、と記した。
 すべての国は、「同じ熱情で扇動」され、同じ「普遍の諸規則」によって動かされているので、米国も、結局はまた、その顰に倣うことになることを、アダムスは示唆した。
 しかし、抑制と均衡を確立した米国憲法のおかげで、米国はしばらくの間は守られうる、とも。
 1814年には、「党派(sect)」と「派閥(faction)」がこの瞬間にも我々の米国における生存に脅威を与えていることを確信したアダムスは、次第にふさぎこみがちになっていた。・・・
 アダムスの息子のジョン・クィンシー(John Quincy)<(注2)(コラム#1472、2937、3028、3802)>は、彼のキャリアの多くを、奴隷制とその廃止が米国にいかなる意味を持つかについて悩んで送った。
 (注2)1767~1848年。米第6代大統領:1825~29年。ハーヴァード大卒、弁護士。「アダムズは現在も外国生まれの女性を妻にした唯一の大統領である。・・・<また、>史上唯一、大統領経験のある下院議員となった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%80%E3%83%A0%E3%82%BA
 (この日本語ウィキペディア、minister(公使)を「担当大臣」と誤訳している!)
 しかし、クィンシーの二人の孫であるところの、二人して米社会科学協会(American Social Science Association)<(注3)>を創立したヘンリー<(注4)>とブルックス(Brooks)<(注5)は、米国的破滅(doom)の最も感動的な諸予言を書くことになる。
 (注3)1865年にボストンで創立。
http://en.wikipedia.org/wiki/American_Social_Science_Association
 (注4)Henry Brooks Adams(1838~1918年)。ハーヴァード大卒、弁護士に。ジャーナリスト・歴史家・学者・小説家。ハーヴァード大歴史学教授。
http://en.wikipedia.org/wiki/Henry_Adams
 (注5)Peter Chardon Brooks Adams(1848~1927年)。ヘンリーの弟。ハーヴァード大卒、ハーヴァード・ロースクールでも学び弁護士に。哲学者・歴史家・小説家。
http://en.wikipedia.org/wiki/Brooks_Adams
 ニューイングランド人貴族の多くと同様、このアダムス兄弟は、南北戦争後の米国における急速な工業化と「マシーン(machine)」政治<(注6)>の興隆に激しく揺れ動く心情を抱いた。
 (注6)「利権や猟官制に基づく集票組織に対する<米>国における呼称である。マシーンにはボスが存在することが多く、また必ず公共事業や公務員ポストといった利権に依存する忠勤集団が存在する。・・・ボストン、シカゴ、クリーブランド、ニューヨーク、フィラデルフィアといった大都市は軒並みマシーンを有していた。・・・19世紀における移民たちは<米国>独特の市民社会になじめないことが多く、マシーンの多くはこういった移民たちに便宜を図るために形成された。移民たちは票と引き換えに仕事の口や、裁判官、警察官、検察官等の公権力者による好意的取扱いを得た。マシーン関係者の最大の仕事は選挙に勝つことであり、具体的には投票日における大量動員である。自治体選挙においては時に不正も行われた(州選挙や大統領選挙では稀だとされる)。・・・<しかし、>貧しかった移民たちも社会に同化し裕福になり、マシーンの不正規または脱法的な援助は必要としなくなってい<き、>1940年代において・・・シカゴのマシーン<を除き、>・・・大都市のマシーンは軒並み崩壊した」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%B3_(%E6%94%BF%E6%B2%BB)
 民主主義それ自体が、米国を不可避的に深淵へと駆り立てつつあるように見えたのだ。 ブルックスにとっては、「拘束を受けない(unfettered)」資本主義は、不変の「文明と衰退(decay)の法則」に従って、ジェファーソン流農業主義(Jeffersonian agrarianism)<(注7)>の痕跡を掻き消しつつあり、米国を無政府的未来に向けて駆り立てつつあったのだ。
 (注7)ジェファーソン流民主主義(effersonian democracy)。「1790年代から1820年代の<米>国で支配的だった2つの政治的概念と動きのうちの1つを表すときに使われる言葉」。Sean Wilentzは、「近年、ハミルトンとその評判は学者の間で決定的な評価を得てきた。学者達はハミルトンが近代的自由資本経済のビジョンを形作った者であり、動的な連邦政府を精力的な実行力で舵取りした者と描いている。対照的にジェファーソンとその一党は、ナイーブで夢見る理想主義者として評価されるようになってきた。<すなわち、>・・・ジェファーソン派は<米国>をヨーマンの理想郷に変えようとして、資本主義的近代化の奔流に抵抗した反動的理想主義者という評価が良い方であ<って、>悪い評価では、西部をインディアンから取り上げ、奴隷制度の帝国を拡大し、政治権力を地方の手に置いておこうと望んだ、奴隷制度擁護派の人種差別主義者であり、さらには、奴隷制度の拡張奴隷所有者の人間資産に対する権利を保護しただけだと<され>ている」と指摘している。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%BC%E3%82%BD%E3%83%B3%E6%B5%81%E6%B0%91%E4%B8%BB%E4%B8%BB%E7%BE%A9
 ヘンリーにとっては、問題は、人的資本を横領し、「最良の階級」の人々を脇に押しやってしまったところの、ポピュリズムだった。
 1880年に、彼は『民主主義』という匿名小説を上梓し、人民主権が「不使用による道徳的感覚の退化(atrophy)」をもたらすとした。
 その一人の登場人物は、ワシントンが、メディチ家出身の法王達<(注8)>の下でのローマのようになる、とまで予言している。・・・
 (注8)レオ10世(1475~1521年。在位:1513~1521年)。「教皇庁で多大な浪費を行い、宗教改革の原因ともなった。」
     クレメンス7世(1478年~1534年。在位:1523~1534年)。「ローマ略奪を招き、ハプスブルク家に屈服するも、フィレンツェ公国を建国する(1532年、後のトスカーナ大公国)。」
《参考》レオ11世(1535~1605年。在位:1605年)。「教皇に選出されるも急死。メディチ家最後の教皇となった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%81%E5%AE%B6
(続く)