太田述正コラム#5780(2012.10.13)
<『秘録陸軍中野学校』を読む(その4)>(2013.1.28公開)
「日露戦争の勝利が、明石元二郎(後に大将)の謀略工作<(後出)>の成功によることは明らかな事実だ。それにもかかわらず、・・・参謀本部第二部<で、>・・・「宣伝、謀略、暗号解読、その他の特殊機密情報」を扱う機関は、・・・「第四班」<であり、>・・・課にすらなっていなかった。・・・
なぜ陸軍がこんなていたらくだったか。それは、徳川幕府がお家安泰のためにつくりあげた「武士道」観<、>つまり、平時における諜報活動を卑劣な行為とする観念が、日本人–わけても軍人の間に盛んだったことや、日清日露の戦勝に酔って敗戦を知らない軍人の思いあがりなど、いくつかの原因もあげられるが、陸軍は兵器の近代化を閑却していたと同様、諜報戦略の面でも日進月歩を考慮せず、依然として日露戦争の「軍事探偵」時代と、ほとんど変わらない認識しかもっていなかったのである。
→後段については、(徳川幕府云々については既に批判したところ、)典拠が全くついていない以上は、疑問符を付けざるをえません。
なお、ここでは指摘するにとどめますが、「陸軍は兵器の近代化を閑却していた」は全くの誤りです。(太田)
「だいたい、わが陸軍の仮想敵国は、建軍いらい、ソ連<(「ロシア」の間違いか?(太田))>である。したがって、いつのばあいでも目標はソ連におかれていたから、軍備も諜報の面でも、彼我をはかりにかけ「ソ連がこの程度だから」という考え方が、潜在的に陸軍を支配していた。・・・
<1937>年ごろまでは、<ソ連は>革命後の基礎がまだ十分にかたまらず、外諜までは手がまわりかねて、科学技術を積極的にとりいれていた英米とは、かなりのへだたりがあったのだ。しぜん、そのソ連を念頭においたわが陸軍の科学防諜技術の遅れも当然であっ<た。>」107~108)
→上掲部分とは全く違った話を畠山はしていますが、こちらも同じく無典拠であるとはいえ、(世論に沿って、)帝国陸軍が対露安全保障を第一義的に考えていた、というのは、戦前の日本では常識の部類に属する、と考えられるのであって、日本の諜報面での出遅れの説明としては、こちらの方が、よりもっともらしいと感じます。(太田)
おそまきながらこれに気づいて、参謀本部第二部第四班を、独立の課に昇格する案のまとまったのが<1937>年の秋。翌<1938>年春に、第四班はようやく「第八課」となっ<た>・・・。」(79~80)
「<その>まえ、・・・陸軍省兵務局に「防衛課」が新設され、<1937>年春に・・・陸軍省兵務局が防諜に関する事務を掌握することになった・・・。・・・
わが国最初の科学防諜機関「兵務局分室」はこうして・・・発足した<(注14)>・・・。・・・
(注14)「1936(昭和11)年7月24日、陸軍省に兵務局(兵務課、防備課、馬政課の3課編制)が新設され、同局兵務課が「軍事警察、軍機の保護及防諜に関する事項」を所掌することになった。・・・1937(昭和12)年春頃に設立された陸軍の警務連絡班は、日本最初の防諜専門機関であった。その後、警務連絡班は組織を拡充して陸軍大臣直轄の軍事資料部に改編、陸軍省兵務局や軍務局、参謀本部第2部と連携しつつ防諜に関する調査を行った。」
http://www.nids.go.jp/publication/kiyo/pdf/bulletin_j14-2_6.pdf
→(注14)で引用したものが史実のようなので、ここも畠山は、伝聞だけで書いている可能性が大であり、心もとない限りです。(太田)
<この>機関が、まず手をつけたのは、国際電信電話の秘密点検と、外国大公使館の信書検閲である。外国公館と外部との電話による通信は、すべて牛込電話局を通ずるしくみになっていて、ここから<新宿区牛込>若松町の機関の電話線に接続され、逐一、盗聴できるしかけであった。・・・」(81、84、90)
→今では、あらゆる国際電話や国際インターネット通信のみならず、国内電話やインターネット通信も、アングロサクソン諸国連合によるエシュロンによって盗聴されていると見た方がよい(コラム#105、1281、1991、2159、2837、3013、3641)ことはご承知のとおりです。(太田)
「北支方面での、中国側の諜者による放火、爆破は、<1937>年が7件、<1938>年が67件、<1939>年が27件と、3年間で実に101件というたいへんな数である。ことに、<1939>年は、その被害が天津地区に集中し<た>・・・。そのころ、・・・<日本の>安田淑智憲兵少佐の指揮する北支科学無電捜査班・・・北京にあった北支憲兵司令部に属する科学捜査機関・・・は、天津の外国租界内から、毎夜きまった時刻に怪電波の出ていることを探知した。・・・
その結果、英、仏、米租界に各一個ずつの、秘密電波発信源があ・・・ることがわかった。・・・
そこで・・・安田少佐は天津米国総領事館に総領事をたずねた・・・。・・・
翌朝、まだ夜のあけないうちに米総領事館<を訪れ、>・・・立ち合いの、寝ぼけまなことの米副領事をつれて、租界内の目標の中国人住宅をおそったのである。・・・
<米総領事館からの>内報で諜報員だけは逃げ出し<てしまってい>たが、わが憲兵に屋外を見張られて、無線機までは持ち出すことができなかった<ため、>・・・無線機<を発見することができた。>・・・
つづいておそったほかの二か所も、諜報員はすでに消えて、無線機だけが残っていた。・・・
このときに押収した無線機が60台。わが国最初のスパイ無線機の押収<だ>・・・った。」(110~113、114~115)
→仮にこれが事実であれば、日支戦争中、かつ第二次世界大戦勃発直前の1939年の時点で、英米(と実に仏)が、いかに中国国民党政府に加担して同政府に対する支援を本格的にやっていたかがよく分かる事例である、と言えるでしょう。(太田)
「兵務局分室・・・はただ単に防ぐ方の、いわゆる「消極防諜」にすぎない。それに並行して、諜報をとる方の、いわゆる「積極防諜」もすすめなければ、完全なものとはいえないから、・・・兵務局内に秘密戦士の養成機関「情報勤務要員養成準備事務所」が・・・<1937>年の末<に>・・・でき・・・<次いで>勅令をもって「後方勤務要員養成所令」がだされた。・・・
この「後方勤務要員養成所」が陸軍中野学校となったのだ・・・。」(116~117)
(続く)
『秘録陸軍中野学校』を読む(その4)
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