太田述正コラム#5784(2012.10.15)
<『秘録陸軍中野学校』を読む(その6)>(2013.1.30公開)
「明石・・・の工作の根本は、もちろん「日本が戦争に勝つため」であったが、同時にまた、あまりにも過酷なロシアの専制政治に、人間としてのはげしい怒りを覚え、正義感に燃えてもいたのである。
それは後に、中野学校出身者が、南方の諸地域の工作で「白人の膝下にある彼ら民族を解放し、独立させることこそ、同じアジアの民族のつとめである」
と真剣に考えていたのと、軌を一にしている。・・・
この明石大佐の報告書「革命のしをり」を基本教材として教育された陸軍中野学校の出身者は「スパイ」という呼び名を極端にきらう。それは、彼らの諜報謀略が、目的のためには手段を選ばぬ外国流の謀略とは、本質手的に違うからであった。中野学校の錬成要領の中に「外なる天業恢弘の範を明石大佐にとる」ということばがある。「中野学校の目的は単なるスパイの養成ではなく、神の意志にもとづいて、世界人類の平和を確立する秘密戦士を養成するのである。そしてその模範は明石大佐である」という意味だ。つまり「明石大佐のりっぱな精神を継げ」ということで、中野学校は大佐の「誠」の精神をも学びとったのである。そしてそれが「謀略は誠なり」の中野精神となって、諜報工作のなかにも生かされたのだ。」(165、170~171)
→帝国陸軍に人間主義精神が脈々と流れていたことが分かる、とここは大甘で受け止めておきましょう。(太田)
「午前中の学課は、おもに諜報、謀略、宣伝などについて、諸外国の例をひいた話が多く、教材にはガリ版刷りが用いられた。外部からきた講師は、ほとんど時事問題がテーマで、政治、経済、思想、宗教と、あらゆる分野にわたっていた。参謀本部や陸軍省の中堅軍人も、戦争論や占領地行政などの講義にきた・・・。・・・
甲賀流忍術14世名人の藤田西湖<も講義にきた。>・・・
術課として「武道」は・・・合気道・・・と・・・剣道<だった。>・・・
<そのほか、>前期教育は・・・自動車学校、通信学校、工兵学校、飛行学校などへ・・・かよっては無線の操作を教わり、自動車や飛行機の操縦練習もした。・・・
<更に、>英、露、支、マレー語など、少なくとも二ヵ国語をマスターすることを要求された・・・。郵便物の開緘<の仕方も教わった。>・・・
特殊爆薬、偽造紙幣、秘密カメラ、盗聴用器などについて<も。>・・・
<また、>三浦半島・・・の山寺にこもって、座禅で肝を練り・・・利根川横断の水練で身心を鍛錬した。・・・
中野学校は、・・・殺人を日常茶飯事とするもので<は>なかった・・・。・・・
殺人は秘密戦士にとって下の下だと教えられた。・・・
ただ万一の時の自殺用毒物と、・・・遅効性毒薬・・・の配給をうけた・・・。・・・
<中国国民党政府のスパイ>を消せ・・・との命令があっても、本人さえいなければ謀略もないのだからと、そっと工作してその人物を・・・逃がしてやった<中野学校出身者が何人もいる。>・・・
敵にたいしては策略も用い、ウソもつく。
しかし、味方にたいしては一ぺんのウソも、不信もないというのが、いわゆるスパイ道だ。ばあいによっては、命を捨てても約束だけは履行するのが、<中野学校出身者>の鉄則<だった。>・・・
また、・・・「謀略は私物ではない。国家国民のために用うべきもので、個人の利益のためには断じて用いてはならない」
と訓えた。・・・」(175~176、180~181、189、217~218、220~221)
→これは、理想的なエリート養成高等教育かも、とここも大甘で受け止めておきましょう。(太田)
「後方勤務要員養成所が、東京中野囲町(かこいちょう)二番地・・・(現中央線中野駅前、中野区役所のあるところ)へ移転ときまったのは、<1938>年の秋であった。・・・
「陸軍中野学校令」が制定され、陸軍大臣の直轄学校となったのは、<1939>年の末である。・・・
陸軍の学校<は、>・・・すべてが教育総監部の管轄下に統一されていた。・・・<その、中野学校ができるまでの>ただ一つの例外が・・・参謀総長直轄の陸軍大学だったのである。・・・
<更に、1941>年3月から、陸軍省の手をはなれて、参謀総長の直轄学校となった。
<1943>年にはいると、日米の戦力の差はだれの目にも明らかとなった。そこで、陸軍はかねてから研究していた、中国大陸で毛沢東が指揮している中国共産党の特務戦–いわゆる「ゲリラ戦」で、太平洋の島々での退勢挽回を考え、各兵科から召集した青年士官を「遊撃戦要員」として、中野学校の実験隊で特別訓練することを命じたのである。・・・
<また、離島残置諜者は、<1944>年の初夏から9月にかけて、・・・中野学校の実験体で訓育されたものである。・・・
終戦後10年目の<1955>年10月、ミンドロ島の山林中から現れ<た>・・・山本繁一少尉<(注17)>もその一人なら、また<1959>年、ルバング島のジャングルに「今も戦闘中の二人の日本兵」として騒がれ、さらに<1972>年10月、その一人である小塚一等兵の死から、・・・再び・・・騒ぎとなった・・・小野田寛郎少尉<(注18)>もその一人である。」(197、199、202、204、206~207)
(注17)「主な残留日本兵一覧」の中には出てこない。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AE%8B%E7%95%99%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%85%B5
「検索しても山本繁一氏に関する情報が極端に少なかった。」
http://d.hatena.ne.jp/natukawa1/20120328/p1
と今年の3月に記している人がいるが、私も同感。
(注18)1922年~。「旧制海南中学校・・・卒業後貿易会社に就職し、中華民国の漢口に渡り中国語を習得。・・・現地召集を受けて、1942年、現役兵として・・・<陸軍に>入隊。・・・陸軍甲種幹部候補生に合格、陸軍予備士官学校に入学、卒業後、中国語や英語が堪能だった事から、当時軍の情報学校だった陸軍中野学校二俣分校へ入校、情報将校として育成され「卒業」ではなく「退校命令」を受領する。・・・日本が占領された後も連合国軍と戦い続けるとの計画のもとでフィリピンに派遣された。・・・1945年2月28日の<米>軍約一個大隊<のルバング島>上陸後、日本軍各隊は<米>軍艦艇の艦砲射撃などの大火力に簡単に撃破され山間部に逃げ込んだ。小野田は友軍来援時の情報提供を行うため、部下と共にゲリラ戦を展開した。ルバング島は、フィリピンの首都のマニラの位置するマニラ湾の出入口にあり、この付近からマニラを母港とする連合国軍艦船、航空機の状況が一目で分かるため、戦略的に極めて重要な島であった。
1945年8月を過ぎても任務解除の命令が届かなかった為、赤津勇一一等兵(1949年9月逃亡1950年6月投降)、島田庄一伍長(1954年5月7日射殺され戦死)、小塚金七上等兵(1972年10月19日同じく射殺され戦死)と共に戦闘を継続し、ルバング島が再び日本軍の指揮下に戻った時の為に密林に篭り、情報収集や諜報活動を続ける決意をする。<以下、略>・・・」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E9%87%8E%E7%94%B0%E5%AF%9B%E9%83%8E
→小野田少尉の人生は、(中野学校の「本科」ではなく、しかも短期間だったと思われるが)教育の力の大きさ、日本人の能力の高さ、といったことを我々に考えさせます。(太田)
(続く)
『秘録陸軍中野学校』を読む(その6)
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