太田述正コラム#5798(2012.10.22)
<赤露の東欧支配(その3)>(2013.2.6公開)
(4)ハードな支配
「・・・その後に続いたのは、言葉の本来の意味での、(つまり不精な修辞的な意味ではないところの、)全体主義的統治のおぞましい押しつけだった。
複数政党による政治は放棄された。
諸政党は、店をたたむのがいやなら操り人形としての役割を受け入れて、共産主義者達と合体しなければならなかった。
共産党権力の触手は、秘密警察から始まり政府のあらゆる部分へと拡散した。・・・
カトリック教会は、・・・独立した組織であ<り、かつ>ライバル関係にある信条体系<である、という>・・・両面があった。
そこで、同教会は、甚だしい痛みが伴う圧力をかけられ、手先の侵入を受け、脅迫され、その神職には、外国の傀儡、迷信の行商人、ならず者にして反動、というレッテルが貼られた。
<神父の>幾ばくかは乗り換えて、「進歩的な」体制に与するフロント諸組織に入り、その他の者達は地下にもぐった。・・・
逮捕される前に、ハンガリーのヨセフ・ミンジェンティ(Jozsef Mindszenty)枢機卿<(注5)>は、彼を非難する諸書類に署名を強いられるであろうカトリック教徒達をあらかじめ赦す声明を発した。
(注5)1892~1975年。1948年に逮捕され、1949年に終身刑を宣告される。1956年のハンガリー革命の際に解放され、ブダペストの米大使館に亡命し、爾後15年間をそこで過ごした。1971年に出国を許され、ウィーンで死亡した。
http://en.wikipedia.org/wiki/J%C3%B3zsef_Mindszenty
彼は、拷問されて、ハプスブルグ家を復位させ、<旧>王室の宝石群を盗み、第三次世界大戦を引き起こすという、要領を得ない告白を行った。
1948年以降、ポーランドにおいて、彼と同じ立場となった、ステファン・ウィジンスキー(Stefan Wyszyński)枢機卿<(注6)>は、戦争による荒廃から教会が恢復する時間を稼ごうと望んで、より敵対的でないアプローチをとった。
(注6)1901~81年。1950年2月14日に政府と秘密協定を結んだ。1953年に投獄され1956年に解放された。
http://en.newikipedia.org/wiki/Stefan_Wyszy%C5%84ski
彼は、1950年に、法に対する敬意を育む、つまりは、地下抵抗運動を放棄するよう神職に指示するところの、論議を呼んだ、当局との合意文書に署名した。
しかし、そのことは、彼もまた逮捕されることを押しとどめはしなかった。・・・
1953年に東独の労働者達がもうちょっとひどくない体制を求めてストを打った時、ソ連は彼らに対して戦車を用いた。
政治的抑圧は内部にも向けられた。
本当の階級の敵とブルジョワ愛国者達が<全て>投獄されてしまうと、秘密警察は、それに代わって、<共産主義の>大義を追求してきた白髪交じりのベテランを含め、共産主義者達を追い回し始めた。
彼らの放心状態での信じがたい告白は、体制の正統性をもまた掘り崩した。
共産党の胸中にかくも多くのファシストのハイエナがかくも長きにわたって巣食ってこれたのは一体どうして可能だったのか、と。
間違いなく、<共産党は>タガが緩んでいる、と。
逆説的だが、1956年に改革派共産主義者達の火に油を注いだのは、見世物裁判の犠牲者の一人であったところの、厭うべき秘密警察の長のラズロ・ラジュク(Laszlo Rajk)<(注7)>の時期を失した葬儀だった。
(注7)1909~49年。スペイン内戦で国際義勇兵として戦い、先の大戦中に非合法のハンガリー共産党の書記長を務め、戦後、ハンガリーの外相を経て内相。スターリンの寵児のラコシ(Rakosi)によって、「国産」共産主義者であったラジュクは粛清された。
http://en.wikipedia.org/wiki/L%C3%A1szl%C3%B3_Rajk
彼の埋葬はハンガリーのスターリン主義を土に埋め、ソ連の侵攻によって押しつぶされることになる、短い自由の期間への道を整えた。・・・
その結果は、一連のアドホックな実験だった。
ポーランドではカトリック教会により大きな自由、ハンガリーでは「グーラッシュ(Goulash)<(注8)>共産主義、東独ではより強化された抑圧とベルリンの壁、だ。
(注8)「パプリカ (paprika) で強い風味をつけた牛肉と野菜のシチュー; ハンガリー料理」
http://ejje.weblio.jp/content/Goulash
こうして、「東欧の均一性(uniformity)」は腐食し始めたのだ。
アップルバウムが記すように、「1980年代には、東独は最大の警察国家を、ポーランドは最高の教会出席率を、ルーマニアは最も劇的な食糧不足を、ハンガリーは最高の生活水準を、そしてユーゴスラヴィアは欧米との最も穏やかな関係を、<それぞれ>持ったのだ」。
しかし、そのどれもうまくはいかなかった。
アップルバウムは、このことを結論の中で<壁に>釘で打ち付ける。
「社会のあらゆる側面をコントロールしようとすることによって、各国政府は、社会のあらゆる側面を潜在的な抗議形態へと変貌させてしまった」。
このことが、反体制派達をして、各国政府と対決することこそできなかったものの、各国政府を掘り崩させる道を開いた。
ポーランド人達は地下スカウト部隊を組織した。
チェコスロヴァキア人はオックスフォード大から(本書評子の父親のJ.R.ルーカス(Lucas)<(注9)>やロジャー・スクラトン(Roger Scruton)<(注10)>のようなスタンドポイント(Standopoint)誌への寄稿者達を含む)哲学の権威達を招き、諸所のボイラー室でセミナーを開かせた。
(注9)John Randolph Lucas(1929年~)。オックスフォード大学士、修士。プリンストン大でも学ぶ。オックスフォード大フェローにしてチューター。
http://en.wikipedia.org/wiki/John_Lucas_(philosopher)
(注10)1944年~。著述家、作曲家でもある。ケンブリッジ大学士、修士、博士。長くロンドン大学バーベック校の美学の講師・教授を務める。
http://en.wikipedia.org/wiki/Roger_Scruton
東独のプロテスタント諸教会は、自国の軍国主義を少しずつ齧った。・・・」(C)
(続く)
赤露の東欧支配(その3)
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