太田述正コラム#5836(2012.11.10)
<ジェファーソンの醜さ(その4)>(2013.2.25公開)
(3)奴隷主たるジェファーソン
「・・・政治的には、大統領として、そして、ルイジアナの購入<(注3)>による米国の<領土の>大拡大の処理にあたって、ジェファーソンは、自分の道徳的諸原則にここでも違背して、新しい土地において奴隷を禁止しようとはしなかった。
(注3)「1803年に・・・大統領の・・・ジェファーソンは・・・フランスから・・・現在のアイオワ、アーカンソー、オクラホマ、カンザス、コロラド、サウスダコタ、テキサス、ニューメキシコ、ネブラスカ、ノースダコタ、ミズーリ、ミネソタ、モンタナ、ルイジアナ、ワイオミングの15州にまたがる・・・210万km2を超える領地を1500万ドル・・・で買収した・・・<米国>の領土はこれにより、この当時で2倍になった(現在でも全領土の23%に相当する)。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%82%A4%E3%82%B8%E3%82%A2%E3%83%8A%E8%B2%B7%E5%8F%8E
それまでの自分の(新しい地における)奴隷制排除(exclusion)政策を覆し、「奴隷制だけがこれらの植民地を豊かにすることができる」ことを認識し、大農園制をこの新しい土地において認め、よって奴隷制をより強固なものと(entrench)したのだ。・・・」(J)
「ジェファーソンは、金銭的に苦境に陥った知人について、「くろんぼに投資すべきだった」と記した。
彼は、友人の家族に現金が残っていたならば、「その全てを土地とくろんぼに費やす[べきであり、そうする]ならば、当面支えになるだけでなく、その価値の増加により、米国では、黙っていても、<年>5~10%の利益をもたらす」との助言を与えている。・・・
最近明るみに出た手紙は、モンティセロで小さな黒人児童達、すなわち、10、11、ないし12歳の「小さな子達」が、どのように、ジェファーソンの、その利益が食料雑貨経費を賄っていたところの釘工場で働くよう鞭打たれていたか、を描写している。
児童達が鞭打たれていたという、このくだりは、『ジェファーソンの農場の本(Jefferson’s Farm Book)』の1953年版として公刊された記録では伏せられていた、というか、意図的に削除されていた。・・・
小麦栽培は、大農園主と奴隷との関係に変更を強いた。
タバコの栽培では、一団の奴隷達が、全員同じ、繰り返しの重労働を、監督者達の直接的な厳しい監視の下で行った。
<これに対し、>小麦は、各種の熟練労働者を要したので、ジェファーソンは、野心的な諸計画を立てたが、それには、製粉工、機械工、大工、鍛冶、紡績工(spinner)、桶屋、<そして小麦畑を>耕す男女、を確保する必要があった。
しかし、ジェファーソンは、最も厳しい仕事をする<タバコ畑に係る>「地面の上の労働者群(labourers in the ground)」も、依然として必要としたので、モンティセロの奴隷コミュニティは、更に区分けが進み、階統的になった。
彼らは全員奴隷だったが、奴隷の中の幾ばくかは、残りの者達よりもましになったのだ。
その過半は労働者群であり続けた。
彼らの上に、奴隷たる(男女の)技術者(artisan)群がいて、この彼らの上に奴隷たる支配人(manager)群がいて、この彼らの上に家の職員(staff)達がいた。
この階統の上に行けば行くほど、よりよい衣類と食糧が得られる。
そもそも、上に行けば行くほど、山頂により近い高さのところに住むことになる。
少数の奴隷は、給与を支払われ、利益の分配ないしジェファーソンが呼んだところの「祝儀(gratuity)」にあずかる一方で、最底辺の作業者達は最低限の糧食と衣類しか与えられなかった。・・・
小麦の栽培にはタバコの場合に比べてより少ない作業者で足りたので、専門化された訓練を受けさせることができる一群の野外労働者群が余った。
ジェファーソンは、奴隷制を近代化させ、多様化させ、工業化させるところの、包括的プログラムに乗り出した。
モンティセロでは、釘工場、繊維工場、(短期で終わった)ブリキ作業場、桶製造と炭製造が始められた。
彼は、製粉場とそれに水力を供給する運河という野心的な諸計画も立てた。
この新しい組織のための訓練は児童期から始められた。
ジェファーソンは、彼の「農場の本」の中で計画の概要に触れている。
「10歳までの児童は看護士をやり、10歳から16歳までは、男児は釘を作り、女児は紡ぎ、16歳になったら農場に出すか専門化(learn trades)させる」と。
タバコは児童労働を必要とした。(児童の体は小さいので、タバコに付いた虫をつまんで殺すという不愉快な仕事には最適だった。)
小麦はそうではなかったので、ジェファーソンは、彼の余った若い作業者達を(男児の場合は)彼の釘工場に、(女児の場合は)紡績と織物場に移した。
彼は、釘工場を1794年に立ち上げ、それを自分自身で3年間監督した。
「私は、現在、12人の10歳から16歳までの小さい男児を使っており、彼らの事業の詳細まで私自身が監督している」と。
彼は、一日の半分を釘を数え、その重さを量ることに費やした。
朝には、彼は、重さを量った上で、個々の釘打ち工に釘の原棒を配分し、一日の終わりには、完成品の重さを量り、原棒がどれだけ無駄になったかを記した。
この釘工場は、「特に自分にとってはよかった。なぜなら、さもなければ余っていたはずの一群の男児達を使用したからだ」と。
同じくらい重要だったのは、これが訓練とテストの場となったことだ。
釘男児達は、全員余分に食品を得た。
このうちよくやった者は、新しい衣類をもらったし、いわば、卒業することも期待できた。
普通の農場奴隷として「地面の上」に行くのではなく、技術者としての訓練を受けられるという意味で・・。・・・
釘打ち工達は農場作業者の2倍の食糧配給を受けたが賃金は支払われなかった。
ジェファーソンは、白人の男児達(監督者の息子達)には釘工場の火にくべる木材を切り出すために一日50セント支払ったが、これは、「彼らが学校に行かない毎土曜日」における週末仕事だった。・・・
(続く)
ジェファーソンの醜さ(その4)
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