太田述正コラム#5838(2012.11.11)
<ジェファーソンの醜さ(その5)>(2013.2.26公開)
これらの人々を働かせるのは、<G>という親方の仕事だった。
提供できる糖蜜も衣類も持ち合わせているわけでないことから、彼は、あらゆる形態の説得に頼らざるを得なかった。
どういう手法を使ったかは定かではないが、何年かにわたっては彼は極めて成功を収めた。
しかし、1798年の冬にこのシステムは立ち行かなくなってしまった。
恐らく、彼が人々を鞭打つのを初めて拒否したためだろう。
ジェファーソンの義理の息子である<R>大佐は、当時、米副大統領としてフィラデルフィアに住んでいたジェファーソンに、<G>の下で、「不服従」によって諸作業が「ひどく滞っている」と報告した。
一か月後に事態には「改善が見られた」が、<G>は、「<奴隷達のことを>心配して時間を完全に無駄にしている」<という報告がなされた。>
<G>は、自分と同じ人々とジェファーソンとの間で板挟みになってしまっていた。
彼らは、ジェファーソンの義理の父親の大農園から売られてやってきたのだが、ジェファーソンは、<G>にいい仕事を与え、彼がカネを稼ぎ財産を所有することを認め、<G>の子供達にも同様の慈悲を示した<からだ。>
しかし、今や、ジェファーソンは、<G>の産出量に目を光らせるに至っていた。・・・
ついに、<R>は、ジェファーソンに真実を明かす必要に迫られた。
<R>は、<G>が「自分の部下達を指揮することができない」と書いた。
頼みとする唯一のものは鞭であり、「不服従の事例が余りにひどいので、私は介入し、彼らを私自身の手で罰した」と報告した。
<もとより、R>自身が鞭を用いたはずはない。<モンティセロには>その専門家がいたからだ。・・・
<ちなみに、ジェファーソンとは違って、>ワシントンは、黒人は劣っているだの、追放すべきだの、と示唆したことはない。・・・
<また、>モンティセロの鍛冶の<F>は、ジェファーソンが、その遺言でもって解放したごく少人数の奴隷の一人だったが、ジェファーソンは、<F>の家族は奴隷のままにとどめおいた。
ジェファーソンの死からその財産の競売までの6か月間に、<F>は、チャーロットズヴィル(Charlottesville)の諸家族と取引を行って、自分の妻、及び自分の7人の子供のうちの6人を買い上げてもらおうとした。
彼のいちばん上の子・・皮肉にも、<ジェファーソンが大統領の時に>まさにホワイトハウスで生まれた・・は、既にジェファーソンの孫息子に与えられてしまっていた。
<F>は、妻と彼の<3人の>子供達には同情的な買い手達を見つけることができたが、下の3人の娘達については、彼女達が異なった買い手に落札されるのを指をくわえて見守らざるを得なかった。
そのうちの1人・・・は、<買われて行った>ヴァージニア大学の職員たる新しい主人のもとからすぐに逃げ出した。・・・」(G)
(4)同時代人によるジェファーソン批判
「米独立宣言における5つの単純な言葉群・・「all men are created equal(全ての人は平等に創られている)」によって、トーマス・ジェファーソンは、1776年まで人類の事象を律してきたところの、アリストテレスの古の公式である、「生まれ落ちた瞬間から、幾ばくかの人は臣下となり残りの人は支配するべく定められている」を廃棄(undo)した。
彼による、独立宣言の原案では、高揚した、破壊的(damning)にして火のような散文でもって、ジェファーソンは、奴隷貿易を「呪うべき通商(execrable commerce)<にして>…恐怖の集合体(assemblage of horrors)」であり、「人間の本性そのものに対する狂った戦争であり、生活と諸自由の神聖なる諸権利の侵害である」と指弾した。
歴史家のジョン・チェスター・ミラー(John Chester Miller)<(注4)>が指摘したように、「奴隷制と奴隷貿易に対するジェファーソンの弾劾を<独立宣言に>含めておれば、米国は奴隷制廃止を誓約する(committed)ことになっていただろう」。
(注4)1907~91年。ハーヴァード大学士、修士、ハーヴァード・ロースクールに入学するも歴史研究を志し、同大から博士号。スタンフォード大歴史学教授としてその後の人生の大部分を送る。ジェファーソンと奴隷制に関する書を初めとする、米独立期前後の歴史を中心とする著作群を残した。
http://histsoc.stanford.edu/pdfmem/MillerJC.pdf
当時、<独立宣言の「全ての人は平等に創られている」の部分>を読んだ人々のうちの幾ばくかは、そのように解釈した。
マサチューセッツは、独立宣言をもとにして、1780年の州憲法にジェファーソンの文言を織り込んだ。
「全ての人」の意味は、まことに鮮明であり、だからこそ、6つの南部諸州の憲法群の著者達にとって極めて心安からぬものがあったことから、彼らはジェファーソンの言葉遣いを訂正した。
彼らは、自分達の<州の>創設諸文書に、「全ての自由人は平等」と記したのだ。
これらの州の憲法の著者達は、ジェファーソンが意味したところを知っており、だからこそ、それを受け入れることはできなかったのだ。
大陸会議が最終的に上記の一節を叩き落としたのは、南カロライナとジョージアが、より多くの奴隷を欲しており、奴隷市場の閉鎖を我慢するわけにはいかなかったからだ。
「ジェファーソンのリベラルな夢が本物であったことは疑う余地がない」と歴史家のディヴィッド・ブライオン=デーヴィス(David Brion Davis)<(注5)>は記す。
(注5)1927年~。奴隷制問題を中心とする米国史学者。ダートマス大学士、ハーヴァード大博士。コーネル大を経てエール大教授。
http://en.wikipedia.org/wiki/David_Brion_Davis
「彼は、くろんぼ奴隷の制限と根絶に向けての具体的諸措置を擁護したところの、世界全体を探しても、最初の政治家の一人だった」と。
しかし、1790年代においては、「ジェファーソンの奴隷制に対する立場に係る最も瞠目すべき事柄は、彼の完全なる(immense)沈黙だ」とデーヴィスは続ける。
そして、その後、デーヴィスは、ジェファーソンによる<奴隷>解放努力は、「事実上なくなってしまった」ことを発見する。・・・
ヴァージニアの奴隷廃止論者のモンキュア・コンウェイ(Moncure Conway)<(注6)>は、ジェファーソンが解放者になるだろうとのずっと続く評判に言及しつつ、「一人の人間が、やらなかったことに対してこれほどの名声を博したことはない」と軽蔑的に語ったものだ。
(注6)Moncure Daniel Conway(1832~1907年)。奴隷制廃止論者、牧師にして著述家。ハーヴァード大卒。
http://en.wikipedia.org/wiki/Moncure_D._Conway
トーマス・ジェファーソンの邸宅は、プラトンの理想的な家のごとく、山のてっぺんに建っている。
天上の領域において、文字通り雲の上に存在する完璧なる創造物として・・。・・・」(G)
(続く)
ジェファーソンの醜さ(その5)
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