太田述正コラム#5840(2012.11.12)
<ジェファーソンの醜さ(その6)>(2013.2.27公開)
 「・・・ヘンリー・ウィーンセックは、「1819年の4月の最初の日に、チャーロットスヴィルの南の山並みの中の大農場から17人からなる一団の奴隷達が逃走し…遠くの目的地を目指した」と記す。
 彼らの先頭に立っていたのは、「金持ちで政治的によく知られたヴァージニア人たる」32歳の白人のエドワード・コールズ(Edward Coles)<(注7)>だった。
 (注7)1786~1868年。ウィリアム&メアリ単科大学卒。従兄弟のジェームズ・マディソン大統領の私的秘書を務め、後にイリノイ州第2代知事。彼は、マディソンにも自分の奴隷を解放するよう促したが、やはり期待は裏切られる。
http://en.wikipedia.org/wiki/Edward_Coles
 彼は、良心の声にもはや抗うことができず、自分の奴隷達をイリノイにおける自由へと連れて行ったのだ。
 その地において、彼は、一家族ごとに160エーカーの土地を与え、自分自身も定住した。
 コールズ家の友人達の一人が、元大統領にして独立宣言の著者たるトーマス・ジェファーソンであり、コールズは、自分と同じことをするようにジェファーソンを説得しようとした。
 彼は、「ジェファーソンに対し、彼の[所有する]奴隷達をただちに自由にすることは求めず、その巨大な名声を背景として、ヴァージニアのための一般的奴隷解放計画を策定したものを公衆の前に提示するよう求めた。」
 コールズは、ジェファーソンに対し、敬意をもって話を持ちかけた。
 ウィーンセックは、「ジェファーソンは、「我々<に与えられたところ>の政治的かつ社会的諸祝福の全てに係る尊敬される父」の一人と述べつつ、「人類の条件の改善のためにかくも多くのことを成し遂げたところの、<彼の>剛勇、智慧、そして徳を称揚しつつ、コールズは、ペンを鋭く研ぎ、この建国の父に対して率直に切り込む。「抑圧に抗するための我々の権利をその上に打ち立てて我々の自由と独立を確立するための、あなたがその名高い著者であるところの、あの名高い独立宣言で謳われている、神聖な諸原則を完全な実施へと移すことは、とりわけあなたにかかっている、と私は思料する。」と記している。
 <しかし、>モンティセロの賢者・・「全ての人は平等に創られていることは自明の真理であると考える」という大胆な主張でもって世界中に衝撃を与えた人物・・は、そのようには全く考えていなかったのだ。
 若い頃、ジェファーソンは、奴隷<貿易>を「呪うべき通商」であって、「人間の本性そのものに対する狂った戦争であ」るとした<(前出)>けれど、今では、成功した農場主かつ経営者として、曖昧な言葉づかい・・奴隷解放は「漸進的」でなければならない・・と侮辱へと引き籠っている。
 <奴隷達は、>「幼児時代から考えたり予想したりする必要なく人となることから、その習慣からして、子供達同様、自分自身の面倒を見ることもできず、子を育てるための努力が必要な場所がどこであれ、すぐに<その努力を>怠ってしまう。その間、ずっと、彼らは、自分達の怠惰によって社会の病原菌(pest)となり、このことが彼らをして略奪行為に走らしめる」と。
 やんぬるかなだ。「<ジェファーソンを始めとする米独立>革命家達が松明を掲げることを拒否したため、コールズは、イリノイにその考えを移した」というのだ。
 この理想主義者にして決意の固いコールズと、冷笑的にして自利的なジェファーソンとの間のやりとりが、ウィーンセックによる、人間の自由に関する、最も鳴り響いて止まない諸宣言をこの世界に与えつつ、自分自身の生涯において、これら諸宣言が表明していた諸原則を繰り返し破った人物の暗黒の側面についての、素晴らしい検証の核心にある。
 このことは、ジェファーソンの一生の間に、彼と彼の奴隷たるサリー・ヘミングスと間の関係に係る噂の形で広く人々の口の端に上った。
 近年のDNAテストが、彼女の子供達の父親がジェファーソン家の一員であることを証明したが、あらゆる状況証拠がそれがトーマスその人であったことを指し示している。
 これまでの強調された焦点は、奴隷所有者としてのジェファーソンではなく、狭く、ジェファーソンとヘミングスが属した家庭(menage)だった。
 しかし、今や、記録は正されたのであり、<ジェファーソンその人がヘミングスの相手だったことがほぼ判明した結果、>そのことは深甚なる意味を持つ。・・・
 「私は、女<奴隷>が2年ごとに1人の子供を産むことが、農場における最良の男<奴隷>よりも多くの利益を生むと思う」とジェファーソンは彼の義理の息子に語っている。
 「彼女が生み出すものは資本への追加だからだ」と。・・・
 「何度も何度も、黒い人々の売却、雇用、あるいは質入れが、ジェファーソン家の人々を、凶作から救い、借金取りに対して時間を稼がせ、そしてモンティセロの新規かつ拡大された形態が形を成すまでの間のこの一家の支えとなった。
 …奴隷達は、ジェファーソンの大災厄に抗する砦を構成していたのだ。…
 1792年に、彼が<行ったあの年利4%の計算通り、>・・・1780年代と1790年代に、実に143人の<奴隷たる>児童達が生まれ、ジェファーソンの所有物となったのだ。」
 「<不慮の>死亡による損失はないものとする」というぞっとする文句<(前出)>は、ジェファーソンが、自分の所有下の人間たる動産をどのように見ていたかを完璧なまでに表現している。
 もとより、例外があったことは忘れてはならない。
 ベティ(Betty)・ヘミングスは、ジェファーソンの岳父の情婦だった。
 岳父によって彼女が生んだ子供達とその子供達は、ジェファーソン家の人々とは親戚関係にあった。
 彼らは、奴隷であり続けたが、相対的には恵まれており、「<山の>てっぺんと邸宅それ自体の中で働いた。」
 彼らは、「もやのかかった敵味方の中間地帯に蟠踞しており、[ジェファーソンの]孫息子が描写するのに苦労したように、「人間と財産という二つの側面を有し、人間に対する感情がその財産としての価値を損ねていた。」」
 それはそうだろう。
 未解決の・・そして恐らくは解決することのない・・ジェファーソンがサリー・ヘミングスの子供達の父親なのかどうかという問題は脇に置いておくとして、「ヘミングス一族の地位は、明らかに、ジェファーソンによってしばしば言明されたところの、人種の混淆への反対論に対する疑問を生じさせる。異種族混交が彼に嫌悪感を催させたとすれば、どうして彼の家のスタッフとして、この人種が混淆した親戚達を彼は使ったのだろうか。…いい衣類を身に着け、いい食事をし、高度に訓練されたところの、これら奴隷たる親戚達で自らを取り囲みつつ、ジェファーソンは、山のはるかに下の方のモンティセロの奴隷制のより過酷な現実と自分自身との間の緩衝地帯を設けていたのだ。」・・・
 みんながそんなことをしていた、というわけではない。
 ヴァージニアでも、奴隷解放の声はあり、自分の奴隷を自由にした人々が存在した。
 「ジェファーソンに対して奴隷制について何とかせよと懇願した人々の長いリストには、ラファイエット、コシューシコ(Kosciuszko)<(注8)>、トーマス・ペイン(Thomas Paine)<(コラム#908、1695Q&A、3321、3327、3329、5083、5179)>のほか、彼らほどは知られていない人物である、エドワード・コールズ、ウィリアム・ショート(William Short)<(注9)>、それにニュー・オーリンズの有色大隊(Colored Battalion of New Orleans)<(注10)>、が含まれる。
 (注8)アンジェイ・タデウシュ・ボナヴェントゥラ・コシチュシュコ(Andrzej Tadeusz Bonawentura Kosciuszko。1746~1817年)。「ポーランド・リトアニア共和国の将軍にして政治家、<米>国の軍人で、1794年の蜂起の指導者としてポーランドとリトアニアでは国民的英雄である。・・・従来、日本ではコシューシコと表記されることが多かった。・・・1776年から1783年の間は、<米>独立戦争に義勇兵として参加し、ジョージ・ワシントンの副官として戦い、大陸会議により外国人ながら陸軍准将に昇進している。・・・1793年の第2回ポーランド分割後にポーランドに戻り、主にジャコバン派と農民たちを糾合してクラクフで蜂起。最大の戦闘「ラツワヴィツェの戦い」・・・でロシア軍に大勝し一時はワルシャワ、ヴィリニュスをおさえたが、やがて兵力を次々と補充してきたロシア・プロイセン連合軍に圧倒された。1794年10月には彼自身も戦傷を負いロシア軍に捕らわれた。コシチュシュコの敗北によりポーランド国家は消滅の憂き目にあう。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%87%E3%82%A6%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%82%B7%E3%83%81%E3%83%A5%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%B3
 (注9)1759~1849年。ウィリアム&メアリー単科大学卒。ジェファーソンの駐仏大使時代の私的秘書。
http://en.wikipedia.org/wiki/William_Short_(American_ambassador)
 (注10)ネットを瞥見した限りでは、何も分からなかった。
 彼らは全員、ジェファーソンの所に来て、米独立革命における普遍的な人権に係る言語を語った。
 米独立革命の諸理想は、何らかの意味が現実にあると信じつつ・・。」
 しかし、この言語の多くを<自ら>記したジェファーソンは、それを聞く耳など持っていなかったのだ。・・・」(B)
(続く)