太田述正コラム#5856(2012.11.20)
<陸軍中野学校終戦秘史(その1)>(2013.3.7公開)
1 始めに
 読者のTUさんから提供を受けた本の中から、最初に、畠山清行著・保坂正康編『秘録陸軍中野学校』を取り上げましたが、引き続き、その続編である、畠山清行著保坂正康編『陸軍中野学校終戦秘史』(新潮文庫)(2004年)を取り上げたいと思います。
2 『陸軍中野学校終戦秘史』より
 「・・・汪精衛の南京政府が弱体だっただけに、その連絡機関であり、指導機関でもあった梅機関<(注1)>は、大陸における特務機関中でもっとも規模の大きなもの<だった。>・・・」(70)
 (注1)「影佐機関とも呼ばれてい<る>。影佐禎昭中将によって日中戦争時に設立された特務機関」
http://ichiranya.com/society_culture/062-secret_military_agency.php
 「影佐禎昭(かげさ さだあき。1893~1948年)。「最終階級は陸軍中将」。陸士・陸大・東大法(政治)卒。「満州事変直前の1931年・・・の講演では、「蒋介石が我国の恩を忘れて反抗せるは言語道断である……支那に対し平和の解決は至難であるから戦争は避け得られない。諸君は陸軍の後援者となりて鞭撻せられんことを切望す」と<論じた。>・・・1937・・・年陸軍参謀本部支那課長、第8課(謀略課)初代課長、<陸軍省?>軍務課長を歴任し日中戦争初期の戦争指導に当たった。<日本の>民間人・・・を指導し中国の地下組織・青幇(チンパン)や、紅幇(ホンパン)と連携し、上海でのアヘン売買を行う里見機関を設立。中国で<の>阿片権益による資金は関東軍へ流れたという。また板垣征四郎陸軍大臣の有力なブレーントラストとしても知られ<た。>・・・汪政府樹立後は汪政府の軍事最高顧問に就任。・・・娘<の1人>は・・・谷垣専一元文部大臣に嫁ぐ。谷垣禎一元自由民主党総裁は孫。名前の一字は、影佐の名からとったもの。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%B1%E4%BD%90%E7%A6%8E%E6%98%AD
 「清は、海禁政策を採っており江南地方から北京へ米を運ぶのに大運河を使用していた。船で米を運ぶ水夫たちは、その道中の困難さから必然的に団結し・・・結社をつくった。・・・後に青幇と呼ばれるこの組織は愛国的であり政府に協力的であることを標榜したが、そもそも中国では結社禁止であり政府は警戒していた。北京に米を運んだ後、帰りの空船に禁制品である塩やアヘンを詰め込み密売しては利益を得ていたことも原因である。アヘン戦争後、五港が開港し上海経由で物資が海上輸送されるようになると水夫たちは職を失い路頭に迷うようになった。こうした状況に対処するために<この>組織<は>上海に進出していく。・・・上海は、列強諸国の租界が誕生し<てから、>・・・中国各地から移民、流民が押し寄せてきた。彼らが出身地ごとに団結し組織を結成した。・・・その組織は統合が進み最終的に紅幇と青幇が残り裏社会を支配するようになった。当時の上海の人口300万人のうち四分の一が両組織に属していたといわれる。・・・国民党が北伐を開始し1927年に到着すると司令官の蒋介石に接近し、4月12日の上海クーデターに協力して多数の共産党員を処刑した。・・・蒋介石も青幇の一員であったとする説もある・・・日中戦争の激化、1937年の日本軍の上海占領が起こると・・・蒋介石に従い脱出した<者と>そのまま留まり日本に協力し<た者とに分かれた。>」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E5%B9%87
 「紅幇は、太平天国の乱が発生していた1854年に退役軍人たちが山に立て篭もって山賊団を結成したことから始まる。青幇に比べて分散的で大きな政治力もなく規則も簡単で平等主義をとっていた。主に湖南省から四川省にかけて勢力を張っていたがはっきりとした拠点はなかった。もともと幇会というのは相互扶助的な側面が強いため、青幇と紅幇の両方に所属している者もいた。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%85%E5%B9%87
 「戦争というと、敵味方銃を撃ち合い殺し合う、凄惨な場面のみ連想するが、日米間ではたしかにそうであった。しかし、中国の場合は、一面のんびりしたところもあって、梅機関では東南公司という商社をもっていた。これが・・・彼我戦線の接点にある緩衝地帯に、敵側で不足している物資を流してやる。すると、向う側からその見返りに、桐油、アンチモニー、タングステン、銅幣など、こちらでほしがっているものがはいって来るのだ。
 その商取引のために、こちら側からも人がはいって行くし、向う側からも人が来る。敵地にはいる場合は、向う側のパスポートをもらい、向う側からこちらへ来る時は、わが方でパスポートを出す。・・・
 終戦後に調べてみると、向うからはいってきたのは、ほとんど・・・少佐とか中佐とか佐官級の軍人で、向うの方が我々よりもよく我々の内情や正体を知っていた。そして終戦となるや、敵側のボスは・・・我々の送別会までしてくれた。・・・
 機関では、帰順部隊の第四旅団という中国人の軍隊をもっていたし、石鹸工場や兵器工場もあった。・・・<後者では、>もっぱらごぼう剣<(=銃剣)>・・・と飯盒つくり<を行い>、・・・<後に>7.6ミリの鉄砲のたま造りにはげんだ。・・・」(71~73)
 「<梅機関の担当地域>の正面にいたのは、重慶<の蒋介石政権>の・・・部隊と・・・<中国共産党の>新四軍の<部>隊だった。<重慶側>の部隊は・・・優秀をもって聞えた部隊だが、それでも住民にきくと、
「共産軍・・・の方がずっといい」
 という。それは、<重慶側>の方が税金も安い。しかし、部隊が移動してゆくと、また新しい部隊が来て、新師団長が税金をとる。連隊が来ると、連隊長がとるというぐあいで、一人としては安いが、一年にまとめると相当額になる。ところが共産軍の方は、多少高くとも、一ぺんとってしまうと、後は指揮官が変っても、一年なら一年間は絶対にとらない。結局、安くつく上に、住民から物を奪ったりした兵がいた場合など、政治局員へ、
「お宅の兵隊に、鶏を三羽盗まれた」
 とか、
「豚を一頭盗まれた」
 と報告すれば、犯人は政治局員がすぐさがしてくれ、物をとられた家の前へ連れて来て処刑する。大抵は銃殺か打ち首で、
「こういうものは共産主義者ではない」
 とその首を、みせしめのためにさらし首にする。まことに厳正で、信頼するに足るから、共産軍の方がいい。というのだ。
 日本軍も、大いに学ばなければならないことだ。と・・・私(・・・小郷幟曹長(中野<学校出身>)・・・)<は>・・・感心した・・・。」(70、76~78)
→小郷幟は下士官だったのですから、このような認識であったとしても責められませんが、この本の原著の著者である畠山清行が、そして、どうやらこの本の編者である保坂正康までもが、小郷の認識に同調しているように見受けられるのは、まことに嘆かわしい限りです。
 アフガニスタンで考えれば、中国国民党は腐敗したカルザイ政権、中国共産党はシャリアを実行するタリバンに準えられるのであって、どちらからも我々が学ぶところなどないけれど、強いてどちらがマシかと言えば、中国国民党/カルザイ政権の方だからです。
 何度も申し上げているように、現在の中共当局は、改革開放以来、このような意味で、タリバンからカルザイ政権へと「脱皮」して現在に至っているわけです。(太田)
(続く)