太田述正コラム#5860(2012.11.22)
<陸軍中野学校終戦秘史(その3)>(2013.3.9公開)
 「三笠宮<(注2)>は、しゃちほこ張った<、(沖縄赴任を命ぜられていたところの)>山下・・・虎雄・・・軍曹<に対し、>・・・書類を置いて机の抽出しをあけると、
「中野学校の精神は誠である。誠をもって、戦場に行ってもらいたい。これは私の身代わりである。いつも、私と共にあるつもりで持って行ってくれ」
 と山下軍曹に、ブローニングの拳銃を手渡した。・・・
 (注2)1915年~。陸士・陸大。最終階級は少佐。支那派遣軍参謀;1943年1月~44年1月。戦後、東大(文)研究生となりオリエント史専攻。「日中戦争当時、進駐先で「皇軍が皇軍たり得ておらず、その名に反する行為(暴行略奪など)をしている、これでは現地民から尊敬などされるわけがない。今の皇軍に必要なのは装備でも計画でもない、“反省”だ。自らを顧み、自らを慎み、一挙一動が大御心に反していないかを自身に問うこと」と部下達を叱りつけた事もある。・・・戦後には日中戦争時の南京事件(南京大虐殺)についてインタビューを受け<以下のように>述べている。「最近の新聞などで議論されているのを見ますと、なんだか人数のことが問題になっているような気がします。辞典には、虐殺とはむごたらしく殺すことと書いてあります。つまり、人数は関係ありません。私が戦地で強いショックを受けたのは、ある青年将校から「新兵教育には、生きている捕虜を目標にして銃剣術の練習をするのがいちばんよい。それで根性ができる」という話を聞いた時でした。それ以来、陸軍士官学校で受けた教育とは一体何だったのかという懐疑に駆られました。また、南京の総司令部では、満州にいた日本の部隊の実写映画を見ました。それには、広い野原に中国人の捕虜が、たぶん杭にくくりつけられており、また、そこに毒ガスが放射されたり、毒ガス弾が発射されたりしていました。ほんとうに目を覆いたくなる場面でした。これこそ虐殺以外の何ものでもないでしょう。・・・北京駐屯の岡村寧次大将(陸士16期・東京出身)などは、その前から軍紀、軍律の乱れを心配され、四悪(強姦、略奪、放火、殺人)厳禁ということを言われていました。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E7%AC%A0%E5%AE%AE%E5%B4%87%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B
 <赴任先でのこと、>沖縄の・・・牛島<満(注3)>司令官・・・<たる>中将は、・・・
 「おう、来たな。貴官らは、貴重な奴じゃから、しっかりやってもらわんといかんぞ。たのむ」
 あたたかい声音で、そう言った。
 (注3)1887~1945年。陸士・陸大。「日中戦争<が始まった1937年、>・・・牛島旅団の凄まじい突進ぶりに敵味方も舌を巻いて驚き、華北の戦線に「日本に牛島旅団あり」との勇名をとどろかせた。11月には、膠着状態にある上海方面の戦勢を打開するため、第6師団が同方面に投入された。<牛島率いる>第36旅団は上海上陸後、崑山から蘇州の線に沿って進撃し、12月11日に始まった南京攻略戦に参加した。南京戦後は、南京郊外の蕪胡地区に駐屯し、1938年7月に始まった武漢作戦にも、中核部隊として参加している。同年12月には第11軍司令官岡村寧次から牛島に感状が授与されている。・・・
 1944年9月、・・・牛島は第32軍司令官に親補され、沖縄に赴任する。牛島は、無辜の住民を戦禍に巻き込まない方法はないかと苦慮し、着任してすぐ県知事と協議している。当初は、輸送船を使っての住民疎開を考えたが、「対馬丸」が撃沈されたため計画は頓挫した。牛島は対馬丸撃沈の報を聞くと瞑目、合掌したが、手が震えていたという。また60歳以上の老人、国民学校以下の児童並びにこれを世話する女性を北部に疎開させるよう指示を出した。牛島としては、本島北部に住民を避難させて、軍民一体となった「玉砕」を防ごうとしたと見られる。八原博通高級参謀も「サイパンの二の舞は厳に慎むべき」と牛島の計画を支持していた。・・・牛島自らも県民と共に、首里司令部洞窟壕作りを手伝った。牛島は暇があるたびに作業現場を視察し、中学生や住民にまじって壕堀りの手伝いをした。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%9B%E5%B3%B6%E6%BA%80
 情報部の別室で、薬丸参謀は、
「お前には、教員の辞令をやるから、石垣島へ行って、兵要地誌と民情を視察しておけ。山下とは、学校の誰がつけたのか、いい名をもらったな。しかも、虎雄とは<山下>奉文より上ではないか。まア、せいぜいあばれるのもよし、もぐるのもよし……」
 そう言って、声をたてて笑ったのである。
 石垣島には、海軍の飛行機が運んでくれた。石垣島の最高司令官は、宮崎<(注4)>少将で・・・あった。宮崎少将は、戦後天草町長を務めたこともある、代々天草の庄屋で造り酒屋の出だから、温厚で、どこやら長者の風格があり、
「君らは若いんだから、命を大切にして、しっかりやってくれよ」
 しみじみと、心にしみ透るような声で言った。牛島閣下と言い、宮崎少将と言い、日本は南方に立派な将軍ばかり派遣しているのだなと、山下軍曹は思ったのである。
 (注4)当時、沖縄八重山郡島の沖縄防衛軍旅団長。
http://ameblo.jp/nihon1941/entry-11015488065.html
 石垣島に数日を過ごすと、山下軍曹は西表島に行くことになった。西表島の祖納部落には、那覇出身の高良鉄夫大尉(現琉球大学教授、農学博士)<(注5)>が、現地召集の一個中隊を指揮していた。・・・
 (注5)「尖閣諸島<で>1950年から68年にかけて計五回行われた学術調査の資料を集めた「尖閣研究 高良学術調査団資料(上下巻)」<がある>・・・。<これは、>高良鉄夫琉球大学名誉教授(94<(2008年1月31日当時)>、元琉球大学学長、農学博士)を中心に行われた動植物の生態などの調査<である。>・・・台湾人ら外国人の不法上陸による海鳥乱獲の模様が報告されている。当時、高良博士は保護措置を提言したが、その後、石垣市や琉球政府、米国民政府が、領土保全のため「不法入域取締」「行政標柱建立」「不法上陸警告板設置」に踏み切った。」
http://sakura4987.exblog.jp/7164852/
 山下軍曹は、この・・・部落に腰を落着けると、高良中隊と連絡して、徴兵前の青年学校の生徒を中心に、郷土の防衛隊づくりをはじめた。・・・あり合わせのもので訓練していると、防衛隊の隊長として<中野学校出身の>横田大尉<が、同じく中野学校出身の少尉、曹長、そして3名の軍曹>を連れて、東京からやって来た。そして、高良中隊も、郷土防衛隊も、横田大尉の指揮下に入ることになったのである。・・・
 間もなく、からだのあいた山下軍曹には、波照間島の小学教員として赴任の命令があった。・・・
 彼は夜出歩いては島の地誌を調べ<た。>・・・
 <ある時、困ったことが起きたので、アポなしで>石垣島の司令部に宮崎少将をたずねた。あいにく夜<だったが、>・・・少将は、夜中だというのに、軍服に着替えて待っていた。この宮崎閣下は、彼が訪れた場合、どんな真夜中でも、軍服に着替えて会ったのである。諜報員には夜も昼もない。真夜中といえども、その訪れて来る時は公務で、命を賭けて昼夜をわかたず活動している彼らに対するには、自分もそれ相当の礼儀をつくすべきであるというのが、将軍の考え方だったらしい。」(202~205、208~211)
→中野学校出身者達の活躍ぶりが窺えることと、帝国陸軍の人間(じんかん)主義的な高級将校群像が登場することから、あえて、詳細に紹介しました。
 ところが、こんな牛島らが率いていた支那派遣軍が、三笠宮の言う虐殺・・一つだけ救いなのは、相手がおおむね捕虜だったこと・・や強姦等を執拗にやってのけたのですから、これをどう説明するかは難問です。以前、私の仮説を申し上げたことがあります・・支那人一般に対する、(支那人側にも問題があったがゆえの)非人間(にんげん)視点・・が、なお、一層の検討が必要でしょう。(太田)
(続く)